子供の時間の無駄を恐れてはいけない。

このエントリは、にょっきさんの以下の記事に触発されて書くことにしました。

時間の無駄を恐れてはいけない - 指揮者だって人間だ

 

無駄な時間はとても大切

にょっきさんは以下のように書かれています。

時間をムダに使うのってぜいたくなことで、誰でもいつでもできることではありません。 だからこそ休める時に休むことが大事で、限りある時間の中でうまく気分転換するには、ひたすら時間のムダになるような非生産的なことのほうが有意義に時間を使えるのでは、と思うのです。(中略)大部分の人はしっかり休むことを考えないとベストパフォーマンスって得られないんじゃないでしょうか。

全くもって、おっしゃるとおりだと思います。

私はいま、自ら選んでものすごく忙しい日々を送っています。仕事、主婦業、ブログ、学生業。これらはいずれも頭を使うものばかりです。行きつけのカイロプラクティックの先生に、いつも「脳の疲れが体に来てますね」と言われますが、それはつくづく実感しています。

この生活は、脳に過剰な負担がかかることを承知したうえで「あえて」選んでいるので仕方ありません。そのかわりに、ただ無駄に過ごす時間を、短くても意図的に確保するようにしています。

たとえば、通勤電車内ではスマホや本を取り出さずにボーッとする。ときどき昼休みに近くの公園に行き、緑を見ながらボーッとする。睡眠はしっかり取り、特に疲れている時は週末に午睡をする。休みの日に息子と近所をフラフラお散歩するのも、脳を休める貴重な時間です。

 

さて、大人の話はこのへんにしておいて。実は、にょっきさんの記事を読んで私が真っ先に思ったのは、大人のことではなくて、「これって、子供も同じだよね」ということでした。子供にとっての無駄な時間の大切さについて、思うところを書いてみます。

 

子供たちは忙しい

4歳の息子は保育園に通っています。平日の5日間、朝から晩まで集団生活を営む子供たちは、お絵かきしたり、生活習慣を身につけたり、友達同士の人間関係を学んだり。高度な早期教育なんて受けていなくても、頭と心をフル稼働させ、多くのことを学んでいます。

それなのに、お友達の中には、週末に2個も3個も習い事を入れられたうえ、今週は遊園地、来週は水族館、その次はホームパーティ…とイベントが目白押しで、週末の度にSNSにその詳細報告が書き込まれている…という子がたまにいます。

もちろん、我が家もよく遊園地などに出かけますし、体力が有り余っている息子に、そろそろスイミングスクールくらいは行かせようかとも思っています。それでも、あまりにビッシリと予定が詰まっている話を聞くと、「週末くらい、もう少しボーッとさせてあげてもいいのに…」と、他人事ながら思ってしまいます。完全に余計なお世話ですが。

 

アウトプットは誰のため?

特に、習い事に関しては、同じくにょっきさんの以下の記事に頷いてしまいました。

アウトプットを促さない教育 ― 「男の子が自立する子育て」を読んで - 指揮者だって人間だ

大人は子供達に対してアウトプットを期待しすぎている感があります。 やれ感想文を書かせたり、意見を言わせたり。 しかしアウトプットさせてしまうと、そこで思考がストップしてしまうこともあるんですよね。 自分の中で深く考えることができる人間に育てるためには、あえてインプットのみを与えてアウトプットを促さないのも手かなと思いました。

こちらで紹介されている本は中高生を主な対象としていますが、幼児にもあてはまると思うのです。

習わせて、アウトプットさせて、褒める。もちろん、何かにトライして目標を達成すれば、子供も喜びや自信を得られます。でも、このような達成の喜びは、日常生活のなかでも味わえることでもあります。

習い事をいくつもさせて、それぞれの努力目標を設定し、ハードルを次々と越えさせる。それで満足を得ているのは、子供ではなく親の方なのではないでしょうか。

 

子供たちは、その小さな全存在を通して、五感で世界を学び取っています。そうして学び取ったものはワインのようにじっくりと寝かせて醸成させるものであり、過剰にアウトプットさせて大人の勝手な評価に晒すためにあるのではない、と私は思います。

これはあくまで私個人の印象ですが、学びを常にアウトプットに変換させられ続けている子は、どこか自信がなかったり、逆に自信があり過ぎたり、イライラしているように感じることがあります。おそらく、親をはじめとする他者からの評価に、過敏になっているからでしょう。

 

子供にも孤独な時間が必要だ

いまの親の間には、子供を放っておくこと=悪という強迫観念がある気がしてなりません。そういう私自身も、どの子がこれを習ってる、あれを習ってるという話を聞くと、「うちもやらせないとダメかも…!?」と、ついつい惑わされる時があります。おそらく、世間に親として怠けていると思われることが怖いのです。そんな時は、夫が「よそはよそ、うちはうち。そんなことをさせる必要はない!」と言い切ってくれるので、歯止めになっていますが。

もちろん、「放っておく」のも「程度の問題」ではあります。ニグレクトがいいなどと言いたいのではありません。でも、子供であることの特権は、孤独で自由な時間が潤沢にあることだと、私は思うのです。

 

自分が子供の頃を思い出すと、深く心に残っている心象風景は、どこに連れて行ってもらったとか、何をやったとかいう「体験」に関わることではなく、ひとりで遊んでいた時の、ふとした瞬間であることが多いのです。それは、大人たちが私をかまう時間や心の余裕がなくて、わりと放っておかれていたせいでもあるのですが。

誰もいない静かな部屋でお人形遊びをしていた時に、ふと窓から見上げた青い空と白い雲。そんな当たり前の光景になぜかハッと心を打たれ、胸を締めつけられるような切ない気持ちになったことがあります。おそらく、年中か年長の頃です。

そこには確かに寂しさがありました。でも同時に、深い安堵感もありました。

私はあの時、孤独であることの自由や、世界内存在*としての自分のようなものを、子供なりに感じ取っていたのだと思います。

幼い頃の孤独で自由な時間は、自分という人間のひとつの核を醸成しました。それは、己れへの気づき、自立への萌芽をもたらしました。先日話題になった自己肯定感にも繋がっていると思います。

こんな記事もありましたので、ご参照ください。

【パパママ必見】創造力を育てるには子どもにとって「ひとりぼっちの退屈な時間」が重要 | ロケットニュース24

 

無駄な時間という恩寵

週末、私がお茶を飲みながら勉強や家計簿つけをしている傍らで、息子は1時間も2時間も想像の羽を広げてひとり遊びをしています。時々、思い出したように話しかけてきたり、抱きついてきたりしては、また元のひとり遊びに戻ります。私はこの時間がとても好きだし、息子もそうだと思います。

別に、英語が話せるようになったり、サッカーが上手になったりしなくていい。今しかない膨大な無為の時間を、思う存分、無駄に楽しく過ごして欲しい。

そんな豊かで退屈な時間が、大きくなって苦境に立たされた時に、自分を信じて前へ進むための思わぬ支えになることでしょう。それは、親から子へ与えられる小さな愛よりも遥かに大きな、この世界から与えられる愛であり、恵みだと思うのです。

 

孤独―新訳

孤独―新訳

 

アンソニー・ストーの『孤独』。孤独の恩恵について説いた名著です。

 

*「世界内存在」はハイデガーが提唱した哲学用語です。厳密に正しいかどうかはわかりませんが、以下のサイトは、ハイデガーの意味するところをとてもわかりやすく、的確に説明していると思いますので、ご参考まで。

世界内存在