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そして私たちは、自己肯定感というタマネギを剥きながら生きる。

先週は、こちらのトピックが盛り上がりましたね。

トピック「自己肯定」について

 このテーマについて個人的なことを語り始めたら止まらないので、それは置いておくとして。今回は、皆さんのブログを読んで考えたことをまとめてみました。

(※なお、これから書くことはあくまで私個人の考えや経験から導き出された一つの見解であり、心理学その他の学術的知見には何ら依っていませんのでご了承ください。)

 

自己肯定感には2つある

色々と読んでいて気づいたのは、「自己肯定感」の意味合いが、人によって少しずつ違うということです。そしてそれは、以下の2つに大別できるかと思います。

 

自己肯定感A:自分のいいところも悪いところも、ただ、全面的に、ありのままに受け止めること。

この意味で使っているのは、今回のトピックのきっかけとなったぼくら社Blogの川崎さんや、gerge0725さんてぃぐてぃぐさんの記事であり、私が「自己肯定感」という言葉を用いるときも、この意味で使っています。

 

他方、にょっきさんの記事や、てぃぐてぃぐさんの記事に寄せられた一部の批判に見られる「自己肯定感」懐疑派の皆さんは、おおよそ以下のような意味で使っています。

自己肯定感B:「自分はこれができる、自分はこれを持っている、だからスゴイんだ」と驕ること。

要するに、「自己肯定感が高い」=「鼻持ちならない」という否定的ニュアンスですね。これは、少し前に話題になっていた「意識高い系(笑)」にも通じる意味合いです。

  

自己肯定感Aは文字どおりポジティブなものだけど、自己肯定感Bはとかくネガティブに受け止められますね。自己肯定感Bを前面に押し出すと、非難中傷・罵詈雑言の恰好の餌食になります。

では、自己肯定感Aと自己肯定感Bは、全く異なるものなのでしょうか。

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  自己肯定感Bは、実は自己肯定感A’(ダッシュ)である

先の問い(自己肯定感A≠自己肯定感B?)の答えを求めるために、自己肯定感Bを持つのはどんな人なのかを想定してみました。

 

たとえば、「私はカワイイ!」と思い込み、自分のブログに毎日写メを載せて自画自賛している女の子がいるとします。この手のブログはこの世に数多ありますが、悪目立ちすれば叩かれる可能性もありますよね。そんなリスクを冒す理由はどこにあるのでしょうか。

もしかしたら、彼女は実際に可愛いけれど、親にブスだと罵られて強烈なコンプレックスを持っているのかもしれません。自己否定感情を打ち破るために、彼女は世間に可愛いと認めてもらいたいのかもしれません。

あるいは、自作の小説をブログに載せて、これまた自画自賛している男の子がいるとします。彼もやはり、親にお前は出来損ないだと言われ続け、創作物で勝負に出ようとしているのかもしれません。

およそ、自己肯定感Bを臭わせる人の裏には自己否定が潜んでいます。自己否定を払いのけるために、まずは「自分はやれる!」と自己暗示をかけ、それを他者にも認めさせようとする。このようにして自己肯定感Bは生まれてくるのではないでしょうか。

 

また、にょっきさんが「自己肯定感が高過ぎる人」としてご指摘されているように、たとえば子供のときから過度に褒めそやされ続けて自己否定感情を持たないまま育った人が、自己肯定感Bをちらつかせることもありますね。でも、自己肯定感Bを表出している時点で、この人の裏にも自己否定が潜んでいることがわかります。正確には、自己を否定されることへの過度の恐怖と言えばいいでしょうか。

たとえ親にすべてを肯定されて育ったとしても、他人は甘くありません。どんな人間にも間違いや欠点や驕りがあるので、どこかで必ずそれを指摘されます。誤った全能感を植えつけられて育った子が、他者からの叱責や非難から必死で身をかわそうとするとき、やはり自己肯定感Bで身を守らずにはいられなくなるのでしょう。にょっきさんはこのようなタイプを「批判キャンセラー」と表現されています。

 

親に否定ばかりされて育った子、親に肯定ばかりされて育った子。いずれのケースにせよ、自己肯定感Bは、どこかで必ずその鼻柱をへし折られます。つまり、どこかで再び自己批判・自己否定に直面せざるを得ないのです。「批判キャンセラー」として自己批判から顔を背けてきた人ほど、そのしっぺ返しは大きいものになるでしょう。そして、自己肯定感A、すなわち「ただ、ありのままの自分を受け入れる」という意味での自己肯定は、この後に訪れます

自己肯定感Aは、自分の欠点や限界を知る自己否定→自己肯定感B→再度の自己否定のプロセスをどこかの時点で大なり小なり通らなければ訪れません。だいたい、幼い子供の自己肯定感なんて、ズバリこの自己肯定感Bそのものですよね。「あなたは世界一かわいいよ!」なんて、親しか思ってないんですから。そう考えると、自己肯定感Bは自己肯定感Aの予備軍=自己肯定感A´だと解釈することもできるのです。私はこのプロセスを、以下のように図式化してみました。

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自己肯定感A’は無限のプロセス?

でも、この図式を書き終えてすぐに、「いや、待てよ」と手が止まりました。自己肯定感A’が自己否定を経て自己肯定感Aに変容したら、もうそこで終わりなのでしょうか。

いえ、そんなわけはありません。てぃぐてぃぐさんが得られたものは、確かにひとつの「達成」であり、自己肯定感Aであることに間違いないでしょう。でも、ご本人も書かれているとおり、人の成長はそこで終わりではありません。私もてぃぐてぃぐさん位の年齢のとき、彼女が感じたのと同じようなひとつの「達成」がありました。そして、それから10年後のいま、また当時とは少し異なる自己肯定感Aを感じています。

つまり、A’からAへの変容は一度ではない。私たちは、このプロセスを延々と繰り返していくのです。いま自己肯定感Aだと思っているものも、実はA’にしか過ぎないのかもしれない。そもそも、真の自己肯定感Aがどこにあるのかもわからない。私たちは、無数のA’と自己否定の繰り返しをタマネギのように1枚1枚剥いていきながら、真の自己肯定感Aを求めて歩いていく。もしかしたら、その遠い遠い先にあるのが、仏教でいう梵我一如の境地のようなものかもしれません。

 

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人生の正午を迎えつつある今の私は、自己肯定感A「のようなもの」を感じています。仕事のこと、ブログのネタ、今日の夕飯の献立といった諸々に追い立てられながらも、しっかりとした、ある確かな土台の上に立っている感覚がある。

でも、これはかりそめに過ぎないでしょう。いつか、思わぬ時点で土台がぐらつく時が必ず来る。その原因は、たとえば親の死、息子の反抗期や自立、転職、退職、伴侶の死といったこと。タマネギを1枚剥くたびに私の土台は脆くも崩れ、地ならしをして、また新たな自己肯定感A「のようなもの」を構築する。そのときは、それまでとはまた違う景色が見えるのでしょう。この終わりなきプロセスを、私たちはただ歩いていくしかない。そしてそれは、シンドイけれど楽しい営みだと思います。これまでの人生だって、思わぬ景色に巡り会えた瞬間の積み重ねのうえに、成り立っているのですから。

 

随分遠くまで思いを馳せてしまいました。そろそろまとめに入ります。

 

そして私たちは、自己肯定感というタマネギを剥きながら生きる。

ここまで考えた私の結論は、要するに、自己肯定感Bもアリだよってことです。

自己肯定感Bは、なんちゃって自己肯定感ともカン違い自己肯定感とも言えます。傍から見れば確かにイタい。でも、それは、この世界に打って出るための起爆剤でもあります。大して可愛くなくても「私はカワイイ!」と信じることや、ロクに文章力はなくても「オレはすごい物書きになれる!」と信じることが、生きていく支えになり、いつか本当の、いや、少なくとも、一段深まった自己肯定感へ変容していく。

SNSの発達で一億総批評家の温床となったオンライン社会は、自己肯定感Bの気配を感じ取っただけで相手を叩き潰しにかかるハイエナが跋扈する世界です。むしろ、自己否定・自己批判・自嘲・自虐が尊ばれ過ぎている気がします。でも、自己肯定感Bは、自己肯定感Aの卵です。特に若い人のそれの場合、周囲が温かい目で大切に、そして適切に育てるべきでしょう。

 

たとえなけなしの自己肯定感であっても、絶望したままでいるよりは楽しく生きられるかもしれない。そして、そんなちっぽけなものを支えにして日々文字を打ち込む人たちが、はてなにも他のブログ世界にも沢山いて、ときに褒められ、ときに貶され、涙を流してタマネギを剥きながら前に進んでいく。

だから世界は面白いのだと、私は思います。