ワーママだけど大学生もやってます。

2年前の4月、私はある大学の通信制学部に3年次編入しました。芸術学を専攻しています。

フルタイムで働き育児をしながらの学問。当然のことながら、取れる時間は限られています。3年目の今年こそ卒論準備のゼミに入り、来年卒論を書いて、息子の卒園との同時卒業を目指しています。

子供が生まれてすぐに起業した、資格を取った…などという話はよく聞きますよね。どういうわけか、子供を生むとパワー倍増する気がしますよね。これって何なんでしょう??

そんなママパワーの原因はよくわかりませんが、今回は、「私の場合」について書いてみます。

 

それはひとつの「潮時」だった

息子が満1歳になったとき、育休が明けて職場復帰しました。その3か月ほど前に人事から連絡があり、復帰後は2年限定の新しい社内プロジェクトのメンバーになるようにと指名され、ありがたく思いながらの復帰でした。

ところが、復帰直後から少しずつ、職場への違和感が増してゆきました。リーマンショック後の社風の変化がさらに進行し、社員ひとりひとりが心豊かに楽しく仕事ができることよりも、ただひたすら効率の追求ばかりが重視されるようになっていたこと。出産前にお世話になっていた上司がトップから退いて代替わりが進み、「この人のためなら頑張れる!」と思える上司が少なくなったこと。また、私自身に対しても、代替わりした同世代の上司が「扱いづらい存在」だと感じていることもわかっていました。

時間内でどれだけ効率よく仕事をしても、以前のように心からの感謝と信頼を寄せてくれる人はいない。努力しても評価されない仕事と家事育児の日々に、「このままでいいのかな」という不満と疑問を感じる日々でした。

要するに、時が流れて潮目が変わり、その職場での私の役目は終わっていたのです。そのまま居続けたところで、あとは、「カビの生えた使い勝手の悪いお局様」になっていくだけなのは明らかでした。

人生の潮目を冷静に見つめ、その「潮時」を見極めること。その重要性は、それまでのいくつかの経験でよく理解していました。「何か変化を起こさなければいけない」と思い、日々の生活に追われながらもアンテナを張って過ごしていました。

 

芸術との「再会」

そんなある日、新聞である通信制大学の広告が目に留まり、「コレだ!!」と直感しました。その直感は、考えれば考えるほど「深い確信」へと変化していきました。「大学で芸術を学ぶ」なんてそれまで考えもしなかったのに、なぜこんなにも深く確信したのか。我ながら驚きでした。

確かに、もともと美術館や神社仏閣めぐりが好きで、出産前はふらふらと「何か美しいもの」を求めて出歩いていました。私にとって、芸術作品は2つの意味で大事なものでした。そのひとつは、日々の些末なストレスや思い込みから自分を解き放ち、様々な感情や感性をあぶりだしてくれる「解放者」として。もうひとつは、古今東西の歴史・文化・思想へと思いを馳せる入口、つまり「啓蒙者」として。

そして、「古今東西の歴史・文化・思想」を深く学びたいという気持ちは、子供の頃から漠然と抱き続けていました。でも、成育環境の中でいつの間にか「何かもっと直接的に役に立つことを勉強しよう」という功利主義的な発想が強まり、その思いは中途半端に燻り続けたままでした。

そうは言っても、出産後は育児に精一杯で、芸術作品に触れる時間はほぼ皆無。ところが、この新聞広告に出会ったことで、これまでの芸術作品との付き合いを改めて思い出し、それが自分にとってどれだけ大切なものだったかを再認識したのです。

また、「ひきこもり」になってしまった1度目の大学生活の失敗を悔やみ続けてきたので、今度こそ、本当に心から学びたいと思えるものを追求し、アカデミズムに再挑戦したい、という思いもありました。

 

大学編入、そして転職

そんなこんなで突入した2回目の大学生活。当初は、習い性になっていた功利主義が捨てきれず、学芸員資格も取るつもりでした。でも、学芸員資格を取るには、そのために必要な科目や実習が多く、取れたとしても、実際に学芸員になれるのはほんの一握りの人だけです。芸術を学ぶことが第一義であって、取っても役に立たない資格のためにかける時間もお金もないので、すぐに卒論研究に的を絞ることにしました。どうせなら、「○○のための学び」ではなく、純粋に知的好奇心だけを追い求めたかったのです。それまでずっと、「○○のための学び」に挫折し続けていたので。

そして、大学での勉強がいよいよ楽しくなってきた頃、職場復帰直後から関わってきた2年間のプロジェクトが終了しました。もう、ここにいる意味はない。仕事のストレスや手詰まり感にキリをつけるべく、すぐに転職活動を始めました。

育児や勉強との両立のために、①定時で帰れる、②効率至上主義で仕事に追われることなく、ゆとりをもって仕事ができる、③これまでの経験を生かしながら、それなりに新しいチャレンジもできる、という3つの難条件を掲げていたのですが、このすべてを満たす職場が一月足らずでみつかりました。それが、いま働いているところです。

 

現在は、人間的な上司のおかげで自分の働きが役に立っていると実感できながら、以前よりゆとりがあるので勉強もブログもできます。ある意味では、かなり贅沢だと思います。お給料は少し下がってしまったけど、お金には変えられない充実感があります。

それもこれも、潮時を見極めたからだと自分では思っています。潮時とは、すなわち好機です。これは本当に不思議なものです。昔はそんなものサッパリわからず、無駄なあがきを繰り返していましたが、30歳あたりから、「好機」を捉えるのが上手になってきました。「その時」が来るまでは、下手に大きく動かない方がいい潜伏期間というものがあるのです。その潜伏期間中に、力と構想を蓄えておくことが大切です。

 

「母親のくせに」という呪縛

こう書くと何もかも順調に進んだようですが、他方では葛藤もありました。「母親“のくせに”、こんな勝手なことをしていていいのか?将来的に何の役に立つかもわからないのに。何も、今じゃなくてもいいだろう」と。実際のところ、つい最近まで悩みに悩み続けてきました。これは、社会の見えない声でもあり、自分の声でもある。「母親のくせに」という言葉は、恐ろしく根強い、社会的強迫観念です。

それでも、新聞広告を目にしたあのとき、私は心の底から、喉から手が出るほど「学びたい!」と強く確信したのです。この確信、この直感を、みすみす見逃してはいけない、と思いました。私は「いま」学びたいのであって、5年後、10年後ではダメなのだと。

 

呪縛から解き放たれて

母であること、主婦であること、妻であること、あるいは、勤め人であること。

個人差もあるでしょうが、女性は自分の性的・社会的役割を内面化し、日常の中に埋没し易いように思います。そういう意味では「生真面目」な人が多い。

もちろん、母や主婦といった「性的役割」にしっかり根を下ろして活躍するのも、それで満足できるのであれば素敵なことだと思います。友人知人の中にも、家事やお料理が心底大好きで専業主婦生活を楽しんでいるママ、育休中に子育てNPOで活躍するママなど、自分の「役割」を掘り下げて生活を充実させている女性が沢山います。

でも、私は生来の天邪鬼のせいか?それだけでは満足できないのです。

むしろ、性的役割・社会的役割に追い立てられるほど、自分の立ち位置を、大きな歴史や社会の流れのなかで俯瞰的に確認したい。もっともっと遠くから、自分や今の社会を見てみたい。

芸術作品は、古今東西の歴史・文化・思想へと開かれた窓であり、知れば知るほど楽しくて止まりません。贅沢させてもらっているんだから、本気でやらなくちゃいけない、と思っています。

それが、何の役に立つかはわかりません。でも、自分のことも、子供のことも、いま立っている半径数メートルの世界の大事(おおごと)として捉えるだけではなく、大きな大きな世界の一粒の砂として見下ろす複眼的視点を持つことが、なにかとても大切だという気がしています。