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Not arrogance, but elegance

働くこと 考えたこと・感じたこと
傲慢ではなく、品性を。

最近、このフレーズを常に心に留めている。ふと自分で思いついたつもりで、なかなかキレイに韻が踏めてるじゃない、などと自己満足に陥ったのだけど、どこかの誰かの箴言かもしれない。

最近改めて感じ入るのは、世の中には「偉い立場の人間は偉そうに振る舞う権利がある」と思い込んでいる人たちが結構いる、ということだ。無意識にせよ、意識的にせよ。

組織で人の上に立つのは、本人の努力はもちろんのこと、様々なファクターが絡み合って、たまたまその立場にいるだけのことだ。努力できる環境に恵まれ、家族や自分が病や老いに倒れることなく、人生の階段を順調に上ることができている。いま自分がそうした時期にあるからこそ、その立場にいることが可能なのであって、「下の人間」より必ずしも優れているということでは全くない。

これまで出会ってきた尊敬すべき上司たちは、皆腰が低かった。無闇にペコペコ頭を下げるという意味ではなく、相手の立場に関わらず、人と人として他者にリスペクトと関心を寄せ、丁寧に対峙する人ばかりだった。パートや派遣、ビルの清掃員にも、きちんと挨拶をして一声かけるような。もちろん彼らも欠点がないわけではなかったけれど、部下や同僚たちに一定以上の尊敬と信頼を注がれていたのは間違いない。

そして私も、彼らのようでありたいといつも思ってきた。ある程度の人数のマネジメントを任されたら、傲るどころか、自分のチームで働いてくれていることに対してありがたいと思うのが自然な感情だし、メンバー個々の職務上の長所や欠点だけでなく、不満や希望、必要であれば、その背後にある動機もある程度理解しておきたい。

もちろん、そのような個々の理解は一朝一夕にできることではなく、日々の仕事やコミュニケーションを通して、少しずつ信頼関係を築きながら得ていくほかないものだ。人事や上司から前もって個々の評価を聞かされてはいるし、中には、「あの人って、○○らしいんですよね〜」と、ご丁寧に悪評を告げ口してくれる人もいるものの、そうした悪評はカッコで括って棚に上げておくことにしている。経験上、それらは参考程度にしかならないことが多いとわかっているからだ。

実際に、新しい職場で多くの悪い前評判を聞かされていた人がいたものの、その背景には深刻な家庭事情があることがわかり得心した。なぜそれがわかったのかと言えば、彼女が私にふとそれを漏らしたからだ。
付き合いの短い相手にそんな秘密をこぼすなんて、上司の立場にある私に媚びようとしているか、依存体質の可能性もある。そこは慎重に見極めようと思いつつ相談に乗ったものの、そのいずれでもないことはすぐにわかった。彼女はおそらく、自分が既にあらぬ誤解や悪評を買っていることをわかっているので、先入観なしに相手を受け止めようする私の態度に心を開いてくれたのだろう。

家庭でも職場でも複雑な事情を抱えてモチベーションを保てないでいる彼女は、人事評価という点では相対的に低く見積もらざるを得ないけれど、そのことが彼女という人を蔑む理由にはならない。私は彼女の相談に乗っているだけではなく、対話を通して、彼女の優しさやユーモアや独自の知性に触れることを楽しんでいる。

最近パートタイムで勤務し始めた別の女性は、その人品や的確な仕事ぶりから、只者ではないなとすぐに直感した。ランチに誘って話を聞くと、かつては大手外資系金融機関でバックオフィスの責任あるポジションに就いていたことがあり、現在は肉親の看病と資格取得のためにパートタイムを選択しているということだった。

長い仕事人生で、常にトップレベルのモチベーションと集中力と貢献を維持し続けられる人間なんてどこにいるだろうか。もしいるとすれば、それは仕事のために全てを投げ打って他人任せにできる環境にある、ごく限られた人間だけだろう。

自分の過去を振り返っても、仕事に全力で集中できる時期とそうでない時期が、数年単位で交互に訪れてきた。タフだけれどやりがいのある仕事に邁進する時期もあれば、仕事内容や人間関係に疑問を感じて資格の勉強や趣味に軸足を置いていた時期もある。育休から復帰した後の2、3年は、手のかかるヤンチャ息子の子育てに体力と集中力を大幅に削ぎ取られ、人事評価もあからさまに下がらざるを得なかった。出産前は同僚の手本となるような働きをして、高い評価を得ていたというのに。

それぞれの人には、それぞれの人生の波があり、仕事とうまく噛み合う時期もあれば、そうでない時期もあるのだ。人事評価自体は、ある時点での偏差値的な相対評価でランク付けせざるを得なくても、仕事の「偏差値」が低いからといって、その人を下に見る謂れは必ずしもない。

それなのに、職務上の地位や評価が低い人間は、人としても軽んじられて当然なのだと思い込んでいる人は存外多い。しかし、そのような思い込みをもとにマネジメントを行うと、チームメンバーをマイナス評価でしか計らず、欠点をあげつらうことばかりに専心し、結果的にはメンバーの意欲低下を助長するだけだ。むしろ、相対評価の低い人であっても、その長所や希望を探りあて、それらを生かせる仕事を限定的にでも任せることで、本人のモチベーションも高まり、チーム全体に良い影響をもたらし得るというのに。

偉そうにふんぞり返り、「下の連中はダメだ」「うちの部下が働かない」などと息巻いているのは、本人のマネジメント能力のなさを露呈しているだけに他ならない。

また、同僚をそのような尺度でしか測ろうとしない人に対しては、たとえどんなに仕事がきちんと出来たとしても、部下としては警戒する。私にはいつもへりくだり、積極的に手伝いを申し出てはくれるけれど、2人だけになるとやたらと他者の悪評を告げ口したり、自分より一回り近く年上の派遣社員に対しては、あからさまに上から目線でキツく注意する人がいる。常に、他人が自分より上か下かを判断して対応を変えているのだ。

今のところ、彼女は私を媚びを売っておく価値のある相手と判断しているのだろうが、この先、私の対応が自分の意に沿わなかったり判断ミスを犯していると感じれば、彼女はすぐさま私の悪評を広めようと画策するだろう。

一見親切で仕事ぶりも丁寧だったとしても、このように他者を貶めて自己の優位を保持しようとする態度は、自分で思っている以上に透けて見えてしまうものであり、チーム全体の雰囲気にも悪影響を及ぼすものだ。

第一、そういうのって、下衆でしょう。

まあ要するに、私はこういう薄っぺらな自己防衛が大嫌いなわけだが、マネジメントの立場にいる限りは、いつ一波乱起こしてもおかしくないこのタイプのメンバーを排除せず持ち上げ過ぎもせずに、いかにチーム運営に活かしていくかが課題なわけだ。

たかだか数人〜数十人のマネジメントをしているに過ぎないのに偉そうな態度を取り目下の人間を嘲る上司も、利用できそうな上司には浅はかな媚びを売り、下の立場の人間には高飛車な態度を取るチームメンバーも、「他者をランク付けして自分が優位に立とうとする」という共通の行動原理を持っており、私はこのような行動原理を嫌っているがために、つい警戒心を強くしてしまう。

でも大局的に見れば、このような行動原理を良しとしないのは、あくまでも私個人の道義心や倫理観でしかないのだ。

もし私が、自分なりの正義や価値観を一方的に振りかざしてチームメンバーを評価しようとし始めたら、私自身が「他者をランク付けして自分が優位に立とうとする」傲慢な上司に成り下がるだろう。

この陥穽にはまるのは、実にたやすい。

それというのも、私自身、過去に同じような過ちを犯したことがあるからだ。その当時は、チームや組織のために「よかれと思って」とっていた言動や姿勢が、私だけがその要因ではなかったとはいえ、あるメンバーの孤立に繋がってしまったのだ。
そのことで、私は尊敬する上役に厳重注意を受けた。「君がいつもチームや組織を良くするために最善を尽くしていることはよくわかる。でもそのために、上に立つ人間が、立場の弱い人を傷つけては駄目なんだ」と。猛省した。自分では一種の「良心」だと思い込んでいた価値観が、結果的には傲りを招いたのだ。

2度と同じ過ちを繰り返さないために、ひとつ心に決めていることがある。それは、人の悪評ではなく、良い評判を最大限重視することだ。

経験上、人に対する良い評価は、悪評よりも遥かに信頼に足るものだと実感している。

2人以上の会話のなかで、ある人がそこにいない第三者を悪く言うときは、どんなに客観的であろうとしても、それまでの様々な経験から来る偏見、相手への嫉妬心、自分に対する自信のなさなど、何がしかのバイアスが大きく働いてしまう。

それに比べたら、褒め言葉で嘘をつくのは遥かに難しい。本当は嫌いだけど人前では褒めておいた方が無難だとか、その方が有利だという下心が働いていたとしても、神経質で何かと細かい人のことを「配慮の行き届いた方ですよね」と褒めることはできても、「とても大らかな方ですよね」と評することはまず難しい。そんなものは見え透いた世辞、あるいは嫌味としか受け止められないからだ。褒め言葉の方が、悪口よりも精度が高いのである。

だから、個人的にはあまり好きでなかったり、評価できないと感じている人であっても、誰かがその人のことを褒めていたら、私はその言葉をとにかく信じてみようと心掛けている。特に、上司として人事評価をするにあたっては、個人的な先入観よりも、他者の高評価の方を重んじる。より客観性の高い評価をしようとするなら、そのくらいで丁度バランスが取れるのだ。

上司に媚びて派遣さんには辛くあたる彼女だって、細かい配慮が行き届く社員という点では高く評価すべきなのだ。そのことを決して忘れてはいけないといつも気をつけているし、彼女が何かで協力してくれたら、たとえそれが見え透いた点数稼ぎに思えたとしても、感謝の言葉をしっかり伝えるようにしている。「見え透いた点数稼ぎだ」と思うのは私の心の問題であって、彼女が協力してくれたという行為は、紛れもない事実なのだから。

そもそも、このような自己保身は、たいてい自信のなさやコンプレックスから来ている。誰かに認められたい、褒められたいと、彼女は人一倍思っているのだ。

それならば、彼女の良いところを認めて褒めればいい。自分はここにいていいんだと思えたとき、人は必ずその良さを発揮する。各人がその良さを発揮したら、チームの成果は必ず上向く。

マイナス点をつけていくのではなく、常にプラス点をつけていきたい。客観的にマイナスせざるを得ない事実があったとしても、「人を裁くな、事実を裁け」が鉄則だ。同じミスを犯しやすい人がいるなら、どうしたら同じミスを防げるのかを一緒に考え、みんなでサポートすればいい。

「仕事なんだから、そんなボランティアみたいなことやっていられるか。ダメなヤツはダメなんた」という人もいるだろう。でも、みんなが少しずつ前向きな気持ちになれば、チーム全体の成果は必ず上がる。いつマイナス評価されるかとビクビクしていたら、人は生かせるものも生かせないのだから。

「袖振り合うも他生の縁」と思う。
「実るほど頭を垂れる稲穂」でありたいと思う。

たまたま巡り会った人たちとの縁を大切にしたい。どんな人にも、かならず光る何かがあり、その光りに多少なりとも触れることができたとき、無類の悦びを感じるから。とてもおこがましいかもしれないけれど、袖触れ合った誰かが、私とのささやかな触れ合いを通して自分の心のなかに何がしかの光りを見つけることができたとしたら、それほど嬉しいことはない。

恐れや嫉妬や保身で覆われた心の奥にある光りを信じようとすること。他者から貶められるかもしれないという恐怖でこわばる相手に、まずはこちらから笑顔と手を差し伸べること。

それが、私にとってのエレガンス、すなわち品性である。