祈りの時間

特定の宗教を信仰してはいないけれど、宗教心はある方だと思っている。

 

信仰とは、ある特定の神や仏、あるいはその宗教・宗派の教義を深く信じ、その教えに殉じようとすることだろう。

 

他方、宗教心というのは、神や教義といった対象に関わらず、この世には、自分たち人間の目には見えないなにか高次の存在、人間やこの世界を創造し、あるいは統べる何ものかが在るのだと予感し、その何ものかに畏怖と畏敬の念を抱くこと自体を指すのだろう。その原型が、「祈り」だ。

 

「祈る」という行為は清く美しい、といつも思ってきた。特にその印象を強めたのは、むかし何度か行ったバリ島での光景だ。

 

バリの人たちは敬虔なヒンドゥー教徒で、その信仰は土地の神々や風土、そして人々の生活や文化芸能と分かちがたく結びついている。そのバリでは、毎朝かならず、店や家々の軒先や街角にチャナンが置かれる。これはヤシやココナッツの葉で作った受け皿に、色とりどりの花やお菓子と共に線香を立てた供え物だ。

 

チャナンは毎日女達が手作りしている。いつもあちこちで、女達がおしゃべりしながらヤシやココナッツの葉を手で裂き、花やお菓子を器に盛る光景に出くわした。彼女たちがこのチャナンを街角に供え、朝日を浴びながら線香の煙のくゆりと薫りに包まれて祈る姿は美しく、胸を打つものがあった。素朴な祈りが島中を充たし、この島は確かに神々に守られているのだと感じると同時に、このように、何の躊躇いもなく真っ直ぐに祈りを捧げる対象をもつバリの人々に、微かに羨望を覚えた。

 

最後にバリに行ってから10年は経つが、私はいま住む場所に引っ越すと同時に、この祈りの習慣を身につけた。そのきっかけは、近くに住む義理の兄に、土地の神様だからとある神社に一緒に連れて行かれ、祈祷を受けたことだった。

 

自営業の義兄が、自宅でも仕事の前後や朝夕にごく自然に神棚に手を合わせている姿は、記憶のなかのバリの女たちが祈る横顔に自然と重なり、ああ、そういえば、日本にもごく身近な祈りのかたちがあるのだと思い出した。

 

転居後に生活が落ち着いてから、無印良品の壁に付けられる棚をリビングの南向きの壁の高い位置に取り付け、小ぶりな榊立てと神具も並べてシンプルな神棚を設置した。それ以来、ほぼ毎朝きちんと榊の水を替え、供え物の米、水、塩、酒を替え、神棚に手を合わせる習慣が定着した。

 

神前に供えたものは自ら摂取して神と共有するのがよいとグーグルが教えてくれたので、夏場以外は水はすぐに飲み、塩と米は取っておいて調理に使い、お神酒は晩酌にしたり、これも料理酒として使っている。この島国を照らす天照大神と、土地に根付いた神様と共にある生活だ。

 

これを「信仰」と言えるのかといえば、それは何だか違う気がする。日々の生活上もっとも身近な神様に手を合わせているだけのことで、その対象は人によって異なるだろう。

 

対象は何であれ、この「祈り」の習慣が私に与えた最大の恩恵は、1日に一回は、必ず自らを客観視する時間を持つようになった、ということだ。「自分たち人間の目には見えないなにか高次の存在、人間やこの世界を創造し、あるいは統べる何ものか」の膝元、あるいは外側に自分やこの世界があると仮定して「祈る」という行為は、自己や社会を客体化し省みるための最もわかりやすいフォーマットであり、そのおかげで、自分はいま「お天道様に顔向けできる」ことをしているのか、と我が身を振り返ることができる。

 

そんな「高次の存在」など迷信だ、この世には「神も仏もない」と、誰が言えるのか。むしろ、迷信と言い切ってしまうことこそが盲信ではないのか。

 

「人事を尽くして天命を待つ」というけれど、私たちはおそらくいつも天命と共にある。人生とはよりあるべき本来の自分へと近づいてゆく道程だとどこかで目にしたことがあるけれど、それが天命をまっとうするということだろう。

 

今朝もいつものとおり出勤前に神棚に手を合わせ、いま電車に乗っている。そして今日もまた、いつものとおり人事を尽くして1日を過ごすのだ。