あちらこちらで若葉が芽吹き、初夏が近づいている。
元夫は花粉症が酷かったので、少し症状が落ち着いてくるこの時期に、車で旅に出ることが多かった。
行き先も旅程も夫が決めた。一応どこに行きたいかと尋ねてくることはあったけど、結局は好きなようにしたい人だったし、次第にどうでもよくなって任せていた。
ドライブ中は、夫が好きな山下達郎を聴いていることが多かった。バブルの頃に一世を風靡した山下達郎は、50代の夫が学生の頃は、ドライブデートの定番BGMのひとつだっただろう。
ちなみに、結婚前から私が好きだった曲が車中でかかったことは殆どない。夫が何も言わなくとも苦虫を噛み潰したような顔つきをするので、それも諦めた。
それでも、それまで数曲しか知らなかった山下達郎を、私は好きになった。清涼感のある美しい歌声と軽快なアップビートと切なさと。それは初夏だけでなく、どの季節のドライブにもよく合った。私も息子もよく一緒に口ずさんだ。
山下達郎だけでなく、夫の影響で好きになった音楽や映画は沢山あった。そのことには感謝しているし、否定する気もない。
離婚の一年前。末期癌だとわかった元義父は、自分の財産をどうやって妻と子供たちに分け与えるか、銀行や税理士を病床にも呼び寄せて精力的に段取りを行った。彼の数多くの遺言のひとつに、子供たちの入る墓の指定があった。
当然、長男夫婦は彼とその妻と同じ墓に入る。次男である元夫と私は、長らくほぼ放置されている、義母の両親(元夫にとっての祖父母)の墓に入れ、との指示だった。
義母の両親は私が元夫と知り合うより遥か前に亡くなっており、私は墓参りにさえ行ったこともなかった。そして、その墓は私が行ったことのない、なんのイメージも湧かない土地にあるらしかった。
でも、義父の言葉は絶対だったし、この取り決めは、以前から時折聞かされていたことであり、亡くなるのを前に全員があらためて再確認しただけのことだった。
元夫は、親父がああ言ってるし、どうもこうもないよな。いいだろ?と、かたちだけは疑問形の通告をしてきた。家族のことに関して感情を挟むことをとうに諦めていた私は、ただ同意するよりほかなかった。
まだまだ長い人生をどう生きるかも分からないのに、なんの縁もない土地で、知りもしない人達と同じ墓に入ることだけは決まっているのか。
その頃はすでに巨大な虚無感を抱えていたけれど、それを感じていてはやり切れないから、このときも、それ以上なにも考えまいと強制思考停止した。
義父が亡くなり、夫に俺たちはもう終わりなのかなと言われた後も、私たちはしばらくうまくいっている夫婦のようなフリをし続け、旅にも出た。
夫の運転する車の助手席で、開け放した窓から流れ込む爽やかな風を感じ、山々の若葉の萌える馥郁たる香りを胸一杯に吸いこみながら聴く山下達郎。
それは完璧だった。完璧な美しさだった。
でも、それは柩だった。私という人間の、見た目だけは美しい柩だった。
行き先も知らずに助手席に乗り運転をまかせ、このまま入りたくもない墓場へと運ばれてゆくのか。
それはどうしても嫌だった。だから、私はこの美しい助手席を棄てた。
いつかペーパードライバーを返上して、自分の車を持ちたい、と思っている。いまは借りる方が趨勢なのだろうけれど、好きなときにどこへでも行くためには、やはり所有している、ということが重要だ。
好きなときに好きなところへ、お気に入りの曲を口ずさみながら自らどこまでも運転していく。
これからの人生は、そんな風に生きるのだ。