女子英学塾

それは8月の終わりだった。

 

息子に宛てた10歳の誕生日の手紙を書き終え、図書カードと一緒に封をして投函したあと、私はほぼ20年ぶりで卒業した大学へと向かった。

 

息子の誕生日の翌日は養育費をめぐる調停の3回目で、その次の日は自分の誕生日だった。調停は今回で決着をつける心積もりでいたので、少し前からぼんやりと、自分への誕生日プレゼントに何をしようかと考えていた。


ひとりの生活もだいぶ落ち着き、収入の範囲内で欲しいものはいつもそれなりに買っているし、いつも食べたいと思ったものを食べている。先月、小旅行もしたばかりだ。調停の申立てを受けてから合意までの8ヶ月分の養育費や弁護士報酬の支払いも控えていたので、お金をかける余裕もなかった。


そこでふと思いついたのが、母塾に行くこと、そして、キャンパスの一角にある創設者の墓を訪ねることだった。


卒業から2、3年後にキャンパスを尋ねたことはあったが、それ以来いちども足を運んでいなかった。いつか行きたいと思う反面、あの頃に向き合うことを恐れてもいた。というよりもむしろ、少しは成長したつもりでいたのに、あの頃とさして代わり映えのしない自分を晒すことになりはしないかと恐れていたのだ。

 

********

 

高3の秋頃から、自分のなかで歯車が狂い始めていることは感じていた。明確な目的意識を持っているつもりだったのに、どことなく受験勉強に身が入らない。どういうわけかこの時期に姉が買ってきたプレステでゲームに没頭し、人生で初めて、親に勉強しなくて大丈夫かと訊かれた。

 

それまでは決してなかったのに、たまに学校にも遅刻するようになり、担任にも「最近どうしたの?」と少しだけ心配されたけれど、それまでずっと優等生だった生徒の小さな変化をそれほど気にする人はいなかった。多少のことがあっても、街場なら大丈夫だろうと、周りの誰もが思っていたし、誰よりも自分自身がそう信じていた。


結局、なんとなく身の入らないまま受験に臨み、志望校のなかで一番偏差値の高い大学には合格せず、この第二志望の大学に入った。

 

 

でも私はどこかで、第一志望ではなく、ここでいいとも思っていたのだ。


初めてキャンパスを訪ねたとき、その美しさに一瞬で心を奪われたのをいまでも憶えている。正門の奥に静かに佇む本館は、秋晴れの青い空に赤い甍が照り輝き、淡いオレンジのレンガの壁に、白い大きな窓枠が整然と並んでいた。その本館の正面入口には、能舞台の背景のごとく均整のとれた一本の松が悠然と来るものを出迎え、中庭へと招き入れる。

 

オープンキャンパスで学生も来訪者も沢山いるのに、ここには他の大学のようなざわつきがなかった。すぐ横を玉川上水が流れ、武蔵野の広葉樹林に囲まれたその環境も大きく影響していたのかもしれないが、とても静かで落ち着いていた。都心の喧騒の只中にある第一志望校よりもずっと、この大学のしんとした清々しさに惹きつけられた。


ここに入れたらそれでいいと、あの頃の私はもう分かっていたのだ。いつも、ほんとうのことはそこに在る。ただ、様々な迷いやエゴが、それを見えなくしてしまう。

 

********


20年ぶりに国分寺駅で中央線を降り、西武国分寺線という小さな路線に乗り換えた。いま住んでいる場所から母塾へ行くには武蔵野線の新小平駅を利用するのが最短距離だったが、あの頃と同じルートを辿りたかった。


西武国分寺線は驚くほど何も変わっていなかったので、一挙にあの頃に戻った気がした。いよいよ近づいているのだと思うと、もうこの時点で、心臓が高鳴り涙が溢れそうだった。正体のわからない不安と期待が入り混じり、こんなにも動揺している自分に戸惑った。


20年前とほぼ変わらない車窓の風景。降り立った鷹の台駅の周辺も、店が多少入れ替わったり、よく利用していた駅前のスーパーが閉店していた程度で、新歓オリエンテーションで先輩たちが口を揃えて教えてくれた定番の洋菓子屋も変わらずそこにあった。


改札を左に出てシャッターの閉じたスーパーの前を過ぎ、小さな橋を渡り、さきほど降りた国分寺線の小さな踏切を渡る。すると、玉川上水が流れる遊歩道に入り、大学のある国道まで続いている。とりあえず、まずは国道の先にある下宿へと向かうことにした。

 

玉川上水と支流である新堀用水の2つの流れに挟まれた緑の道を、一歩一歩、噛み締めるように歩く。かつてはこのあたり一帯を覆っていたであろう照葉樹の林も、いまはこの上水沿いと母塾の構内に名残りを留めるばかりで、すぐそこには住宅街が広がっている。それでも、この遊歩道とキャンパスだけは時の流れから身を守るように木々に取り囲まれ、周辺の住宅街にもその柔らいだ気が満ちている。

 

********

 

大学の授業は思った以上にハードだった。英文科の新入生たちは、英語の辞書を片手に怒涛のような予習復習に追われてサークルやバイトもままならず、いくらなんでもこんなはずではなかったと嘆いてはいたが、47都道府県の優秀な女子校から元生徒会長や学級委員長を寄せ集めたような真面目な学生ばかりなので、入学後の浮かれ気分が収まると、みな集中して日々の授業に必死で食らいついていった。


そんな中、受験前からの悪い予感は的中した。憧れの大学に入って勉強もサークルもバイトも恋愛もしたいと、意気揚々とテンションを上げようとしていたけれど、その実どこかすべてが他人事のようで、何も手につかなくなった。ゴールデンウィークを過ぎたあたりから、大学に行くつもりで自宅を出るものの、気が重くてどこかで時間を潰したり、大学構内で授業の予習をしたにも関わらず、結局は授業に出ずに、片道2時間近い通学の道程をとぼとぼと引き返したりしていた。

 

前期授業が終わった時点で、出席日数が試験を受ける要件を満たしていない必修科目が複数あり、4年で卒業できないことはこの時点で確定した。大学の精神保健センターでカウンセリングを受けて、休学が妥当であるとの意見書を出してもらい、後期の半年は休学することにした。

 

表向きには、その理由を第一志望に受からなかったためだと言い訳し、もう一度受け直すことにしたけれど、そんな理由ではないことは自分でもわかっていた。案の定、受験勉強にも集中できず、二度目の受験にも失敗して、2年目の春に復学した。

 

休学中、家を離れることが不可欠ではないかと感じていたので、親の許しを得て、2年目から大学の近くで下宿し始めた。何とか大学に通い、バイトなどもしていたものの、度々一歩も外に出られない状態に陥ることを繰り返していた。


出席日数はギリギリだし予習も不十分なのに、要点や本質を掴むことだけは上手く、誰よりも説得力のある文学作品の解釈を発表して担当教授を唸らせたこともあった。「あなたはその気になれば出来るのに勿体ない、一体何が原因なの?」と相談に乗ろうとして下さったものの、どうにもうまく説明できず、この大学を出てそのまま教鞭を取るようになったであろうお嬢さん育ちの先生に、私の生い立ちの苦労が分かるわけがないと決めつけて(なんと未熟で不遜なことか)また自分の中に閉じ籠もった。


当時はSNSどころかインターネットさえなかったし、ひきこもりという言葉も一般化していなかった。この頃から若者のひきこもりは増加して後に社会問題として取り上げられるようになり、私の同世代には、いまも苦しみ続けている人が沢山いるけれど、当時は同じ境遇の人間がほかにもいるなどとは思いもよらず、只々、自分だけがおかしいのではないかと恥じるばかりで、度々家から一歩も外に出られなくなることを、校外で出会った友人にも恋人にも誤魔化し続けた。


あまりに自分が情けなくて恥ずかしくて、このまま消え入りそうだった。人はこんなにも呆気なくレールを外れることができるのだと、はじめて知った。

 

********

 

真夏の緑道は頭上にも水面にも濃い緑が覆い被さり、蝉たちの鳴き声がいまを盛りと木霊していた。春には桜が淡いピンクのアーケードで新入生たちを迎え入れ、秋には美しく彩られた紅葉が水面を流れ、冬には澄み渡る青空に木々の梢が綾を織る。

 

この幾度となく歩いた道に、あの頃、どれだけ慰められたことか。

 

国道を渡りひとつめの角を右に曲がると、下宿していたアパートに辿り着いた。ここもやはり、時が止まったかのように何も変わっていないことに驚嘆した。


アパートは、美しい藤棚のある庭を隔て、家主の二階建て家屋と向かい合わせに立っていた。いつも下宿生たちを気遣ってくれた大家のおばあさんは卒業の数年後に亡くなったことを、息子さんからの年賀状の返信で知っていたので、家ごと失くなっていてもおかしくないと覚悟していたのに。


藤棚がサンルーフ付きのガレージになり、玄関まわりに家主と異なる名字の表札と子ども用の傘2本が追加されたことだけが、かろうじて歳月を物語っていた。

 


時の流れは実に不思議だ。大学を5年で卒業した23歳の春、22年後は遥か先の遠い遠い未来のことで、45歳の自分など思いも及ばなかった。せいぜい、自分は何歳で結婚するのだろうと想像してみるのが限界だった。


ところが、こうして22年の歳月が経ってみると、Windows95は10になり、あの頃やっと普及し始めた携帯電話やPHSはスマホに代わり、恐るべき速さで時代は変化しているのに、他方では何も変わらずそこにあり続けるものも数多ある。30代あたりまでは、時は時系列に直線的に進行していると思い込んでいたが、いまでは45年間のその時々が、記憶のなかで混ざり合い、融け合っている。

 

おそらく、これからは直線的にただ老いてゆくのではなく、時と記憶の手綱を上手に大事に操りながら、天命の尽きるその日まで、ひとつずつやりたいことを実現してゆくのだ。年齢など関係ないというのは、きっとそういうことではないか。

 


下宿をそっと離れ、大学へ向かうことにした。いよいよ梅子に会いにゆく。


言うまでもなく、キャンパスには悠久の時が流れていた。変わりゆくすべてを受けとめ受け流しながら、梅子の盟友ハーツホンの名を冠した赤屋根の本館は、この日もそこに気高く静かに立っていた。

 

本館の脇を周り、かつて歩き回ったキャンパスをぐるりと廻る。夏休みの構内には、何百何千の蝉の鳴き声と、校舎の修復工事の音だけが鳴り響いていた。この校舎ではあの科目、この校舎ではあの授業と思い浮かべ、意外にもそれぞれの教科のエッセンスをよく覚えていることに気づく。授業はどれも好きだった。出席日数が足りず単位を取り損ねても、学んだ知識の断片はその後の折々で生かされてきたと、今はわかる。

 

********


在学中に津田梅子の墓参りをするとお嫁に行けなくなる、というのが、津田塾の代表的な伝説だった。だからというわけではないが、私は一度も梅子の墓参りをしたことがなかった。


当時は、梅子の手記をもとに卒業生が著した評伝がある文学賞を受賞し、生協にも平積みされていた。娘が伝統ある女子大に入ったことが誇らしかった母は、入学式の帰りにこの本を購入したらしく、すごく良かったと読むことを勧めたが、私は頑なにそれも避けた。


6歳で親元を離れ国費で海を渡った少女が、自分の運命と使命を受け入れ、女性の自立のために生涯をかけて築いた「女子英学塾」に入っておきながら、自分はあまりに情けない落ちこぼれ学生だった。たかだか一学生ではないか、自意識過剰だと自嘲しながらも、こんな自分に津田生の資格はない、梅子に合わせる顔がないと、罪悪感から背を向けていた。

 

********

 

広い芝生のグラウンドの入り口に、墓所を示す小さな案内板があった。テニスコートでダブルスに興じる4人の学生の笑い声と自分の鼓動を聞きながら、墓所へと通じる最後の角を曲がる。


グラウンドに並行する一本の土の道が、梅子の墓へ真っ直ぐに伸びていた。その光景に虚をつかれ、一瞬、蝉の声が鳴き止んだ気がした。


それは、梅子との一対一の邂逅だった。

やっと、私はここに帰って来たのだ。

 

蝉の声とテニスボールのラリーの音がふたたび響き渡り、土の道を、ゆっくりと前へ進んだ。

 

なんと清々しく明るいのだろう。梅子がクリスチャンなのはわかっていたのに、それまでずっと、重々しく縦に伸びる日本式のずしりとした墓石を思い描いていた。ところが、5メートル四方ほどに仕切られた墓所の真ん中にある墓標は、明るい色の、磨き上げられた小さな御影石に、UME TSUDAというローマ字と、生没年月日が刻まれているだけだった。梅子はただひとり、何にも飾り立てられることなく、みずから築いた生涯の夢の片隅に眠っていた。

 

墓の前で、私は盛大に泣いた。大粒の涙が、とめどなく頬を流れた。


なんとか就職先を見つけまがりなりにも卒業し、仕事に励み、壁にぶつかってはその時々に必要と思うことを学びながら、他方では結婚に歪んだ願望を抱いたまま家庭を持ち、子育てに追われながら働き続け夫を支え、その根本にある誤りに気づいてそれを手離し、いまここに戻ってきた。


泣いたまま深々と一礼して手を合わせ、心のなかでこれまでの非礼を詫び、卒業から22年を経てやっとあなたに会いに来れたこと、少しはその資格があると自分で認められるようになったことを報告した。そして、これからもあなたの教え子のひとりとして、女性が単に経済的にだけでなく、自立した自由な個としていかに生きてゆくかというテーマを、その失敗や過ちも含め、みずからの生き方で示したいのだと誓った。


なんの根拠もないけれど、梅子と自分を結ぶ一本の強い絆を、このとき深く感じていた。やっと会えた安堵感で心底ほっとし、今のあなたでいい、それでいいのだと、梅子に背中を押されているようだった。蝉たちの大合唱がおかえりと私を包み、祝福と赦しを与えくれていた。


いまの自分にこれほど相応しい誕生日プレゼントがあるだろうか。正しいタイミングで正しい場所に戻って来れたことに、心からの感謝と喜びが溢れていた。

 

 

墓所を離れ、最後に本館に立ち寄った。教室にも廊下にも、傾きかけた晩夏の陽光がまばゆい光を投げかけ、すべてがきらきらと輝いていた。学生生活の大半をひとりで過ごしたこの校舎を、私は心底愛していた。こんなにも美しい場所で、5年もの月日を過ごしたのだ。


中庭に出て、かつてよくひと休みしていたベンチに腰掛け、空を見上げた。四角く切り取られた青空に、刷毛で掃いたような薄雲が、いくつか白く浮かんでいた。


私はきっと、死ぬまでこの日を忘れないだろう。

 

(終)

 

********

 

【ご挨拶】

 

この記事をもって、「街場の女日記」を終了させていただきます。自分の中で一区切りつき、この場所が役目を終えたと感じるからです。

 

細々と続けてきたこのブログにひっそりと長くお付き合い下さってきた方々に、深く感謝の意を表します。

 

もっとも、書くことはやめません。来年からは新たな場所で、心機一転、バージョンアップして書き始める所存です。その折には、Twitterで告知させていただきます。

 

また、このブログは今後もこちらに保存させていただくつもりですので、ふと思い返すことがあれば、引き続き、ぜひお立ち寄りください。

 

それでは、今後ともお付き合いのほど、よろしくお願い致します。

皆さまどうぞ、よいお年をお迎えください。

 

街場マチ子