出る杭

離婚してもう2年が経つ。そのあいだに自分の中でなによりも一番変わったのは、出る杭になること、正確には、出る杭であることを恐れなくなったことだ。

 

子どもの頃から、人より物事や他者の心理をよく見抜いてしまうこと、「もっとこうすればいいのに」と気づいてしまうことを自分のなかで持て余し、扱いあぐねてきた。

自分にしてみれば当たり前だと思うことを率直に友人に指摘して深く傷つけてしまったこともあったし、学校の先生に苛立たしげに生意気だと言われたり、避けられたりしたことも何度もあった。

 

だからいつもどこかで、思ったことを言い過ぎないように手加減してきた。あまり出過ぎたことを言わないように、なるべく「普通」にしていなければ、と慎重に口を噤もうとしてきたし、書くことがその捌け口にもなっていた。

「噤んできた」と断言できないのは、それでもやはり自分を隠しきれなかったから。言うべきことは言うべきだという思いも他方では常にあり、いつもこの2つの相反する思いに踠いてきた。

 

なぜ手加減しようとしてきたのか。それはもちろん自分が可愛かったから。生意気だ、余計なことを、女のくせに、と拒絶され傷つくのが怖かったから。

 

年齢を重ねるにつれて、相手にとって受け取りやすい言葉の使い方や表現方法が少しずつ練り上げられ、子どもの頃のような生きづらさは徐々に軽くなってきていたけれど、どこかでやはり、目には見えない「普通」とのバランスを取ろうとする自分がいた。

 

その「普通」の最たるものが私にとっては結婚だった。外から見れば「普通」な家庭でありながら中身はねじ曲がった環境に育った私には、「家庭」や「家庭的愛情」というものがボトルネックで、自分なりの「理想の家庭」を持ちたいという業が墓穴となった。

墓穴に嵌ったまま人生終了では生まれてきた意味がないので這い上がったら、それに付随するあらゆるものを失った。それは大きな喪失だった。「努力」の結果積み上げたつもりでいたものを手放し、また離れていったのだから。でもその結果、私は「普通」への妄執から解放され、ただ「自分」だけが残った。

 

「普通」という霧が晴れたらあたり一面、以前より遥か遠くまで視界が開け見晴らしがよくなった。ゴールこそ見えないものの、いま自分が歩いている道もはっきりと見えるようになった。あとはただ自分の持って生まれたものを生かして目の前の道を進めばいいのであり、言うべきことを言うこと、為すべきことを為すことを怖れなくなった。

 

もちろん、自分だけで世の中が成り立っているわけではないから、何でもかんでも思ったことを言ったりやったりすればいいというわけではない。あえて言わない、あえて引き下がる、ということは当然あるけれど、それは以前のように他者からどう思われるかと恐れるからではなく、最良の結果を出すために今どうすべきかを判断した上でのことで、そうした判断力も格段に上がったし迷うことが少なくなった。

 

また、「言うべきこと」とは改善点の指摘といったことだけでなく、ひとに謝意を伝えたり、相手の美点を讃えることも含んでいる。あなたはこんなところが素晴らしい、あなたのこんなところに感謝している、と伝えることを臆さなくなった。これも、相手にどう受け取られるかと恐れずに、心から思ったことだけを真っ直ぐ伝えられるようになったからだろう。

 

まだ誰も予見していない先々のことを見据えたうえで、人と違う提言をする。あるいは、あまり公然と他者を褒めない社会のなかで誰かを大いに、世辞ではなく心から称賛する。そうすると当然目立つ。以前はそれが怖かった。でも、いまは出る杭になることを躊躇わない。

 

いやむしろ、この記事を「出る杭」というタイトルで書こうと思い立って2週間ほど経ったいまとなっては、もう出るとか出ないとかいったこともあまり意味を成さなくなっていることに気づく。

その時々に応じて堂々と目立つアプローチをとることもあれば、隠し釘のように見えないやり方で楔を打つこともある。それは単に手法の問題で、大事なのは、いつも最善最良の手を打つことだけなのだ。エラーは修正すればいいし、次回により良い手を打てばいい。思考が明快でシンプルになった。

 

出る杭になることを怖れず自分のポジションを明確にすることで、結果的には支持者や仲間を増やすことにもなった。増えたというよりも、自分がブレなくなったから、他者からもアプローチがしやすくなったということだろう。

教えを乞うてくる人、何かの目的のために協力を要請してくる人、一緒に何か楽しいことをしようという人など、いずれもはっきりと何かを求めてアプローチしてくるので互いにわかりやすいし、双方が果実を得る。

 

このような正のアプローチに反し、利己的な目的や承認欲求を満たすためにこちらを利用しようとする負のアプローチについては、それがノイズであるということが明確にわかるようになったので、適当に距離を置くなどそれ相応に対処する。

他者の思惑に一喜一憂していると、負のアプローチにも喜んで尻尾を振り判断を誤るのだ。

 

もう、同じ失敗は繰り返さない。