街場の女

(2017年6月15日の夫宛てメール)

 

先日のあなたからの対案について考えました。
話をまとめると、以下のとおり。


・私に出て行くと言われてから急遽考え、海外に2年くらい英語の勉強をしに行こうかと思っている。できれば(本人の父親の)一周忌前の10月くらいまでに出国したい。最初は語学学校で、あとは追々考える。最初はマルタに行って、あとはアイルランドでも行こうかな。

・幸い親父の遺産で、その程度の資金はある。こんなチャンスもなかなかないし、年齢的に遅過ぎるということもないだろう。そこで、留守のあいだ、マチ子とマチオは引き続きここに住んでもらえないだろうか。家の管理を人に任せるよりもその方が助かる。

・これからどうなるのかマチ子もすぐにはわからないだろうし、自分も戻ってきたときどうなってるかはわからない。マチ子は好きな人とどうにかなっているかもしれないし、俺にもいい人ができているかもしれない。どうするかは、その後考えればいい。

・2人の間のことについては、両方の親には言うしかないかもしれないが、まだ保留なのだから、友人・知人らには何も言う必要はない。


で、ここから先が私の考え。

結論としては、やはり、私はマチオとできるだけ早くここを出ます。籍も外します。

あなたが言ってるのは、
「オレは旅に出るからこの家と子供を守れ」、
「何にもなれないし、なる気もないけど、好きなことしてくるから帰ってくるのを待ってろ」
ってことよ。あまりに虫が良すぎでしょう。

しかも、マチオの教育のために残しておこうとか言ってた(元義父の)遺産を、結局は、性懲りもない自分探しの旅のために浪費するの? 息子の養育は私にすべて押し付けて、父親としての役割も放棄して?
それでいて、「たまにはスカイプで連絡を取り合いたい」って、どれだけ美味しいとこ取りするつもり?

いくら何でも、父親としての責任まで放棄すると言い出すとは思わなかったわ。私は、離婚するからって、あなたからマチオを奪う権利も、マチオから父親を奪う権利もないと思ってた。だから、引き続き、あなたとマチオがいつでも会えて、あなたがマチオの好きなものをつくって食べさせてあげたければ、いつでもそうできる距離に住もうと提案したのよ。


この前のメール、ちゃんと読んだ?

 

「あなたがやっと書き始めたことは、あまりに遅すぎるけど、とてもよかったと思ってる。あんな文章を書くようでは、少なくとも現時点では物書きには程遠いけれど、これから何をして食べていくにしても、書くこと、つまり、自分や他者ときちんと対峙することから、今度こそ逃げないでほしいの。そして、長い長いモラトリアムから卒業して大人になってほしい。ていうか、そうでないとマズいでしょ、ほんと。あなた自身のこれからのために、危機感をもって取り組んでほしい」

 

ってとこ。

 

余計なお世話かもしれないけれど、私は真剣にあなたの将来を案じてるのよ。それが、何ひとつ通じていないことに愕然としたわ。
結局、あのメール以来、ブログも更新せずに、自分探しの旅の計画にばかり夢中になっているしね。

そうやって、自分の人生からどこまで逃げ切れると思っているの? 旅に出てなにかの「成果」が出せると思ってるの? 私に依存してきたように、あわよくば旅先で、またパラサイトできる女の子を見つけられるとでも思ってる?
それ、結婚前にしていたプー生活と本質的には何も変わらないでしょう。


こんな父親の背中、マチオに見せられない。「オレのオヤジ外国を気儘に旅しててイカす」とでも言うと思ってるの? 息子を捨てるだけでしょう。仕事で海外に単身赴任するのと、目的もなく自分探しの旅に出るのでは、根本的に違うのよ。


子供じみた対案につくづく愛想が尽きたので、あなたがどこに行こうが行くまいが、私はやっぱり、この家を出ます。

バリに行く気も失せたけど、これだけは、あらためてマチオに訊いてみるわ。どうしても行きたいなら行くしかない。
でも、行くとしても、夫婦で受けるエステのコースはキャンセルしてもらえる? もう、そんなの受ける気になれないでしょ、お互いに。

以上です。

 

こう決意して、わたしは離婚し、息子と共に家を出ました。2017年7月の終わりのことです。

(もちろん、バリ島旅行はキャンセルしました)

 

そして、それから2年近くが過ぎたいま、わたしはひとりで他県に暮らし、都心に通勤しています。

 

別れることを決めた当初は、以前の記事にも載せたように、「マチオはいつでもお父さんのところに遊びに行っていいし、車で遠くの公園やお出かけに連れて行って欲しかったら、いつでもお父さんと行っていい。ただ両親が別々に生活するだけで、マチオにとって、お父さんとお母さんがいつもそばにいることに変わりはない」という方針のつもりでした。

ところが、父親としてきちんと働く気も、息子の養育に関わる気もないばかりでなく、元義父が自分の息子のためにと遺してくれた預金さえ使って旅に出るという発想しかないとわかった時点で、この父親に息子を会わせ続けるわけにはいかないと決意し、その考えを相手にも伝えました。

息子にもそれを説明したところ、「ようするに、お父さんは自分のことしか考えてないってことだね」と言い、わかった、と肯きました。

 

あとから思えば、この時点で遠くに引越してしまうべきだったのですが、当時はすでに、元夫の家の近くの賃貸住宅との契約を結んでいたし、見知らぬ土地で一から生活するということにも思いが及びませんでした。

 

夏休みをわたしの実家で過ごしながら新生活の準備をし、8月の終わりに新居に移ると、郵便受けには、東京家庭裁判所から、面会交流調停の期日通知書が届いていました。

 

転居後に近所を歩いていると、この道を通ったら、この店に入ったらお父さんに会うかもよと怯える息子。次第に、わたしが残業で父子が2人きりのあいだ、自己肯定感を砕くような嘲笑や罵倒を受けていたということもわかってきました。それは、わたし自身が元夫から受けながら耐えてきた蔑みや威圧とよく似たものでした。

 

それは典型的なモラルハラスメントではないか、とひとに指摘されるまで、わたしは、離婚はあくまで夫婦の問題で、わたし自身の我儘だという引け目のようなものを拭い去れませんでしたが、次第に、息子のためにも、もっと早く離婚すべきだったのだと確信するようになりました。後にモラハラの専門書を読んだときも、あまりに思いあたることが多いことに驚きました。

 

調停では、最初から終始一貫して、元夫がきちんと働いて生計を立てられるだけの安定した収入を得ることを、息子との面会のための最低条件だと主張し続けましたが、先方は働くための準備中だと言うばかりで、いつまで経っても仕事を始めるわけでもなく、だらだらと調停が続きました。

 

そんな中、近くに住めばいつでもサポートできるよという姉夫婦の助け舟に乗って、この県に息子と引っ越してきたのは、ちょうど1年前の2018年3月。

その時点では、まさか最終的にひとりになるなんて、思いもよりませんでした。だから、ブログの更新ができなかった間も、ブログのタイトルを「ワーキングマザー日記」から「シングルマザー日記」に変えておきました。

 

そして、息子がわたしの元を離れて父親のところに戻ったのは、半年後の2018年9月。

これは、1年におよんだ調停を経て息子自身が出した結論でした。裁判所もこれに疑義も唱えず、親権を元夫に返すという結論をもって、10月に調停は終わりました。父親は、いまだ働いてさえいないというのに。

 

調停委員2名は、最初はわたしに同情的で、それは仰るとおりですよねと同意してくれました。しかし、単に働かないだけでなく、息子が父親に会うのを恐れていること、父親からボンクラだの馬鹿だのと嘲られるうちに自己肯定感がうまく形成されなくなり、特にわたしが残業の多い管理職の仕事に転職したあたりから、息子の意欲が明らかに減退してきたこと、そしてわたし自身が常に感じていた夫への恐怖心…等々、息子に会わせるべきでないと考える根拠を示し続けるうちに、ふたりは次第にあちらの味方になっていきました。

 

特に、男性調停委員の贔屓は著しいものでした。心療内科による息子のPTSDの診断書や、仕事や家事育児の合間に渾身の思いで書いた一万字におよぶ陳述書を提出しても、苛立たしげに、「まあ、離婚前のことは済んだことだから関係ないじゃないですか。また一緒に生活しようと言っているわけでもあるまいし、月に一度くらい会わせてあげなくちゃ気の毒でしょう。どんな父親でも父親なんですから」と言ってのけたのです。最後の方では、ほとんど口論のようになったこともありました。

 

このままでは埒が明かないからと調査官に入ってもらい、数ヶ月にわたる調査を経て最終報告書が出ましたが、その道の専門家であるはずの調査官でさえ、それぞれの当事者から聴取した言葉の中から、あまりにも恣意的に、父親に会わせるべきだという結論ありきで辻褄を合わせた報告書を出してきたのでした。

 

これが、裁判所のなかで行われる司法制度に基づく手続きだなんて、わたしには到底信じられませんでした。調停とはあくまで第三者を介した話合いでしかなく、発言の根拠は追求されず、いくらでも虚偽がまかり通り、調停委員を丸めこめれば「勝ち」なのです。

そういった意味では、常に根拠を示し続け、また相手にもそれを求めるわたしのやり方は、明らかに調停委員の嫌うものでした。鼻持ちならないヒステリックな母親だと思われたことでしょう。それはよく分かっていましたが、わたしにとって、調停は自分と息子の人生を守るための戦いでしたから、納得のいかない妥協をする気は一ミリもありませんでした。

そしてまた、面会交流調停というものは、「子どもは父親と母親の両方に会い続けられるのが一番の幸せなのだ」という大前提のもと、親としての適格性など歯牙にもかけないのです。調停委員も調査官も裁判官も、十分な福祉と養育を受ける子どもの権利というものを気にする様子は、まったく見受けられませんでした。少し話は逸れますが、これは、つい先日、娘への性的虐待に対して下された最高裁の無罪判決にも相通ずるものだと感じます。

 

しかし、いずれにせよ、父親のもとに戻りたいと言ったのは息子です。息子はずっと、お父さんに会うのが怖いのだと言っていましたが、次第に考えが変化していったようです。

お父さんには怒鳴られたりバカにされたりするけれど、宿題をやらなくたってウソをついたってバレなかった。でも、お母さんやおじちゃん、おばちゃんには、嘘がバレるしサボれない。ボクはお父さんみたいに、何もしないでラクしていたい。とても平たく言えば、そんな理由でした。

 

その本心を初めて知ったのは、皮肉なことに、調査報告書のおかげでした。調査官と息子だけの、親を交えない2人だけの最終面談で、息子は、わたしや姉夫婦に言っていたのとは大きく矛盾することを言っていたのです。これが、調査官がわたしの言い分や陳述書の記載をほぼ無視し、父親に会いたくないと言わせたのは母親だと言わんばかりの結論を導き出した、決定的な要因になっていました。

 

調査官との面談を終えて東京家裁を出たあと、ふたりで蕎麦屋に入り、息子は上機嫌で好物のざる蕎麦を食べていました。事前に代理人弁護士に模擬面談までしてもらってこの日に臨みましたが、「どうだった、ちゃんと自分の言いたいこと言えた?」と訊くと、息子はこざっぱりした顔で、「うん、大丈夫だった」と応えました。息子のなかでは、もう決着がついていたのでしょう。

 

息子は4年生になったはずですが、会ってはいません。会おうとすれば、とうぜん父親との関係も維持せざるを得ない。それは元夫の思うつぼに嵌り続けることを意味するからです。元夫に絡めとられたまま、自分の人生を犠牲にするわけにはいかない。それでは離婚した意味がない。

 

向こうに行ったら、もうお母さんと二度と会えないかもしれないんだよと、わたしの姉は繰り返し息子に確認してくれましたが、息子の意思は変わりませんでした。

 

幼くしてこんな選択を突きつけられるような間違った結婚をしてしまったことを、生まれてきた息子に本当に申し訳なく思っています。それはわたしが一生背負い続けていかなければならないものです。

 

でもその一方で、息子はわたしとは別の一個人であり、父親と生きることを選んだのは、息子自身の選択です。しかもそれは、息子を護ろうとしてくれた複数の大人達を裏切ってまで手に入れた、非常に強固な意思による選択でした。

 

その選択がどんなに間違ったものであろうと、裁判所のお墨付きまで貰ったいま、わたしにはどうすることもできません。それは、18年前に元夫と付き合い始めたときに、姉や両親がどんなに反対しようと自分のエゴを貫いたわたし自身と同じことです。息子自身が、間違いだったと身を以ってわかるよりほかありません。

 

わたしにできるのは、息子にいつ何があっても対応できるように、しっかりと働き、生活を整え、金銭面を含めて備えておくこと。

そして、おそらくこの先も正しい背中を見せることはないであろう父親にかわり、よく働き、よく遊び、人生を充実させて生きる母親の背中を見せること。

それがすべてだ、と思っています。

 

息子はきっと、あることないことわたしの悪口を聞かされて育つかもしれません。そして、自分のしたこと、言ったことを忘れ、こうなったのもすべては母親のせいだと恨むようになるのかもしれません。

でも、いつか大人になり、あらためて何があったのか確かめようとしたときに、自分のしたことも思い出すことになるでしょう。そして、父親がどう生き、母親がどう生きてきたのか、本人なりに考え理解するでしょう。

 

そのうえで自分はどう生きるのか。それは、息子が決めることです。

 

 

結婚後に手に入れたすべてを手放し、ひとりで歩き始めてから、半年ほどが経ちました。

 

仕事をして家に帰り、食事をし、ドラマを観ながら晩酌したり、ダンササイズで汗を流したり、年明けから習い始めたピアノの練習に夢中になったりと思うままに過ごして入浴し、誰にも邪魔されない広いベッドで心地よく眠る。

元夫に嫌な顔をされたり馬鹿にされ、いつの間にか聞かなくなった音楽を好きなだけ聴いたり、見てみたかったドラマや映画を観ても、もう心臓がバクバクする必要もありません。

 

つい先日までの調停や息子の記憶には、いつもは蓋をしています。煮込み鍋の蓋を少しずらしておくように、少しだけ隙間を開けておきながら。そうしなければ、日々の生活を営むことはできません。

 

事情をよく知る友人に、息子がいなくて寂しくないかと訊かれたけれど、二言三言で思いを言い表わすことは到底できず、「前を向いて歩くしかないからね」というようなことしか言えませんでした。

 

いつだって、蓋を開ければあらゆる思い出や感情が堰を切ったように溢れ出して、収拾もつかないのです。

 

 

新しい土地で、息子が去ってからの知り合いも少しずつ増えてきました。定期的に通うマッサージ店のセラピストさんやネイリストさん、ピアノの先生など、わたしに子どもがいることなど知らない人たち。あえて話す必要もないし、それでいい、と思っています。

 

傍目には、バリバリ働き趣味や暮らしを謳歌しているけど、なぜかファミリー層向けの郊外の町に住む、ちょっとふしぎな女のひと、といった風に見えるのかなと想像します。そんな、カテゴライズしにくい存在になった自分を、さて面白いことになったな、と思ったりもします。

 

街場に生きる、ちょっと正体不明な女。それがたぶん、いまのわたしです。