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ブログを書くことは、教壇に立つことと似ている。

このブログについて 読書

このブログを始めてから1年が過ぎ、これでちょうど50記事目になります。

1年でたかだか50記事、しかも、そのうちの約3分の1は過去の日記のコピペですから、この1年を振り返って総括できるようなことは何もありません。それでも、とりあえず一区切りつける意味で、今回は「ブログを書く」ということについて書いてみます。

 

紙の日記からWeb日記

14歳の頃からずっと、紙の日記を書き続けてきました。

就職してからWeb日記をつけ始め、サイトを転々としつつも30代はじめ頃まで10年近く書き続けました。

但し、これらはあくまでも紙の日記の延長線上にあるものでした。様々な葛藤を抱えていた20代の頃は、自分のドロドロとした感情を吐き出して整理する場として機能し、知人には決して知られないことを前提としていました。実際、この頃は今と比べたらネット利用者は少なく、SNSもなかったので、かなり個人的なことを書いても、身バレする危険性なんて殆ど考える必要もありませんでした。

30を過ぎると、仕事がかなり忙しかったせいもあり、次第に書かなくなっていきました。「自分は何者なのか、何をしたいのか」といったアイデンティティの問題で悩むことが減り、家族間の葛藤も問題ではなくなり、「吐き出す場」としてのWeb日記は必要なくなったのです。

 

何を書いたらいいのか、わからない

それでも、「何かを書いて、それを誰かに読んでもらいたい」という欲求は常にあり続けました。とにかく「書く」ことが好きなのです。

ところが、極めて私的な空間だったWeb日記の呼び名が「ブログ」に変わると、ビジネス目的の利用や、個人でもアフィリエイト収入などで利益を目指すものへと次第に変わっていきました。また、mixiTwitterの登場でネット利用者が爆発的に増え、ネット世界が現実の人間関係と容易につながり得るようになりました。

私はこの変化に追いつけず、ブログという「公的空間」に何を書いたらいいのかが、わからなくなっていきました。

2007年11月の紙の雑記帳に、このように書いてあります。

ネット上で日記を書きたい。でも、どこに、何を、どこまで書けばいいのかがわからず、どうしても踏み切れない。以前は堰を切ったように言葉が湧き出ていた気がするのに…。

書けないのは、良くも悪くも第三者の目を気にしているからだ。

以前は、読んでいる人のことを気にせずに書いていた。でも、いまは誰が読むのかを想定して慎重になっている。

何を、誰に、何のために、どう伝えたいのか。

それが整理できないから、マイぷれすmixiをどう使い分ければいいのかが定まらない。どの場で、どの範囲まで自分をさらけ出すか、ということは、自分という人間をどう表現・表明するかということだ。

その仕方によって読み手の反応や感想は様々で、それらの反応・感想を当然自分が負うことになる。それって難しいことだ。

うーん…。

 

妊娠~育休期には、家族や友人に告知して、妊娠・子育て日記ブログを書いていたこともありました。その日の献立や授乳記録、息子の写真といった、本当に当たり障りのない日常報告。日頃はなかなか会えない家族や友人たちに、近況を伝えるためです。

でもやはり、本当に書きたいのは、ただの近況報告レポートではありませんでした。まして、Facebookを利用するようになってからはそちらで近況報告できるので、ブログに書く必要性はなくなっていきました。

私がいちばん書きたいのは、「自分の考え」でした。頭のなかだけでこね繰り回した抽象論や、どこかで読んだだけの借り物の言葉ではなく、自分の体験、自分の五感を通して感じ、学び、身についた、血の通った思考の結果をアウトプットしたい。つまり、何よりも「自分語り」をしたかったのです。

 

「自分語り」にこだわる理由

「自分語り」にこだわるのは、なぜか。

 

ひとつには、「自分語り」の文学が好きだということがあります。

「自分語り」の文学といえば、まずは日記が挙げられますね。

たとえば、『アンネの日記』。ローティーンでありながら大変賢く瑞々しい感受性を持ち、絶望的な状況のなかでも努めて冷静さと希望を失おうとしないアンネの気丈さに、高校生だった私は衝撃を受けました。 

アンネの日記 (文春文庫)

アンネの日記 (文春文庫)

 

 

そして、高野悦子の『二十歳の原点』三部作。 

二十歳の原点 (新潮文庫)

二十歳の原点 (新潮文庫)

 

 

高野悦子全共闘時代の同志社大学の学生で、この日記は、彼女が3年生で自殺した後に、家族が発見し書籍化されたものです。有名ブロガーのちきりんさんが中学生の頃に読んで感動し、日記をつけるきっかけになった作品として知られていますが、私がこれを読んだのは、ちょうど自分が20歳のときでした。

ひきこもりになって下宿先の部屋でひとり悶々と日々を過ごしていた私には、自分と同じような恋やアイデンティティの問題で悩みながらも社会と果敢に向き合っている彼女は、眩しく映りました。それでも、こんなに眩しく輝いていた彼女がなぜ自殺してしまったのか、それに対し、ひきこもっている私に自殺願望が一切ないのは何故なのかといったことも考え込みました。

 

また、日記ではなく小説でも、ある人間、もしくはその家族をめぐる人生の物語が好きです。たとえば、北杜夫の『楡家の人びと』、水村美苗の『本格小説』、ナタリア・ギンズブルグの『マンゾーニ家の人々』など。

 

楡家の人びと 第1部 (新潮文庫 き 4-57)

楡家の人びと 第1部 (新潮文庫 き 4-57)

 

 

本格小説〈上〉 (新潮文庫)

本格小説〈上〉 (新潮文庫)

 

  

マンゾーニ家の人々

マンゾーニ家の人々

 

 

近年特にお気に入りなのは須賀敦子。小説ではなくエッセイ形式ですが、自分や友人たちの生き様をとても丁寧に回顧しています。 いまの私の「自分語り」は、無意識のうち彼女の影響を大きく受けています。

ミラノ霧の風景―須賀敦子コレクション (白水Uブックス―エッセイの小径)
 

 

ファンタジーやミステリーよりも、こうした「生身の人間の、ありのままの生き様」が描かれた作品に心を揺さぶられるのです。

更に、ここに挙げた作品に共通しているのは、個人の物語を通して、描かれた当時の社会や歴史があぶり出されていること。

極めて個人的なのに、そこには時代が大きく深く関わっている。大きな流れのなかで、個々の人間がいかに懸命に、あるいは適当に、あるいは無様に、あるいは果敢に生きているか。そうしたものがありありと描かれているドラマに、私は深く感銘を受けます。

 

そしてもうひとつ、私が「自分語り」にどうしてもこだわってしまうのは、自分自身の育った家庭環境がいささか複雑だったり、そのために(少なくとも主観的には)大きな挫折を経験してきたという成育歴のためです。

この気持ちをよく代弁してくれているのが、こちらのツイート。

 

そうなんですよ、まさしくコレなんです。ブログを書いている人の多くは、こうした動機が根底にあるのではないでしょうか。

ちなみに、私は自分が恵まれていないとか不幸などとは全く思っていません。むしろ、けっこう恵まれた部類でしょう。どん底から這い上がって、いまはとても幸せですから。

 

「『自分語り』はウンザリ、自分に酔うな」と思う方はもちろん多いと思います。「お前だけが不幸なわけじゃない」、それとは逆に、「リア充自慢するな」という反感を持つ方は多いでしょう。

確かに、そのような「ひとりよがり」な不幸or幸福自慢の自分語りなら、私がいまする必要はありません。20代の頃は葛藤の真っ最中で、それを丸ごと吐き出していました。先日ご紹介した恋愛に関する日記はまだしも、家族関係の葛藤についてはグロテスクなまでに自分の醜さも何もかもさらけ出していて、気が滅入った読者も多かっただろうと思います。

でも、あの頃に精一杯葛藤し考え抜いて、ひとつひとつの問題と向き合って自分のなかで消化してきたおかげで、いまの私は充足しています。ですから、いまの私にできるのは、自分がどうやって葛藤を克服してきたのかを書くことだと思っています。今年最初のエントリにも、以下のように書いています。

そのすべてが、「中途半端で無駄だった」わけなんて、絶対にない。私はいつも、その時々の学びや出会いを自分の血肉に換えてここまでやってきたと、いまは自信を持って言える。誰かと自分を比較するのではなく、自分自身に対して、「ひきこもりになった18才のあの頃から今日まで、よく頑張ってきたね」と言える。

だからこそ、私はこのブログを書こうと思ったのではなかったか。どうってことのない人生だけど、様々な失敗や挫折や苦しみ、ささやかな成功や喜びのなかで学んできたこと、考えてきたことが、もしかしたら、誰かの心に響いたり、役に立ったりすることもあるかもしれない、と思ったからこそ。

 

私自身が多くの「自分語り」から大切なことを吸収してきたように、こんどは自分の経験を通して、誰かにいくばくかの希望を与えられたら。そう祈りながら、このブログを書いています。そう、「生きる希望」について、語りたいのです。

 

そしてまた、ここ数年感じているのは、極めて個人的だと思っていた自分の成育歴が、いま振り返ってみると、実は時代と大きくリンクしていたということです。そうした自分と時代の関わりについても、今後少しずつ考察していきたいと思っています。

 

「身バレ」リスクをどう捉えるか

でも、「自分語り」って勇気がいりますよね。「身バレ」のリスクがあるからです。Web日記を書いていた十数年前とは違い、いまはネット利用者も増え、SNSが当たり前になり、身バレの可能性は格段に高い。そのために、「『自分語り』がしたい」という思いと、「身バレしたらどうしよう」という思いのはざまにあって、ここ数年ブログを書きあぐねていました。

 

実は、身バレしない範囲で自分の言いたいことを書くために、様々な方法を試していた時期もあったのです。

アメブロで、よくあるファッションの自撮り写真(もちろん顔は出していません)を載せた軽い感じのブログのなかで、自分の思いをポエム的に差し挟んでみたり。あるいは、別のブログで、歯に衣着せぬ辛口批評的なものを書いたり。

でも、どれもしっくり来ないし、大して読んでももらえなくて、いずれも半年ほどで閉じてしまったのです。それで結局、「身バレを恐れていては、自分の書きたいことは書けないし、伝えたいことを伝えられない」と思い知ったんですね。

 

そこで始めたのが、このブログでした。自分の経験や考えをぼかしたり、奇をてらったりすることなく、丁寧に、誠実に、素直に書こう。ただそれだけを念頭に置いて。

そうしたら、それまでとは比較にならないくらい、読んでもらえるブログに成長しました(あくまで個人比です)。もっとも、はてなブログで書いているのも大きな原因ではありますが。

昨年は更新頻度も極めて低かったにもかかわらず、100名近い読者登録があり、それ以外にもブックマークなどに入れて継続的に読んで下さっている方もいるようで、驚くと同時に大変ありがたく思っています。

 

もちろん、これだけ自分のことを率直に書いていますから、身バレする可能性は大いにあるわけです。知人が読めば、その多くは、すぐに私のことだとわかるでしょう。だからこそ、「丁寧に、誠実に」ということを、常に心がけています。

 

特に、このブログでは、自分の経験ばかりではなく、自分の考え方や立場を少なからず明確にしています。自分の意見をあえてぼかすとか、結論づけるまでには至らないから、考えがまとまらず曖昧なものは曖昧なままに書くというスタイルも、まったく悪いとは思いません。それはそれで、自分に正直なスタイルですよね。

但し、このあたりの個人的な方針は、わりとちきりんさんに近いのです。

自分の意見を持つ人にしか、自分の人生は選べません。決められない人は、自分の人生を生きられないんです。そしてもちろん、仕事上で価値が出せたりするはずもない。(中略)

「AともいえるがBともいえる」みたいな言い方をする人の多くは、自分の意見さえ持てないくせに、「ちょっと賢そうなことを言いたい」と思ってます。

でもね。「場合による」みたいな言い方の問題に気が付かず、悦に入ってそんなことばっかり言ってると、ほんとーに役立たない人になっちゃいますよ。(Chikirinの日記『2013-11-23 「AともいえるがBともいえる」とか言う人の役立たなさ』より)

ここまで言い切るのはなかなか挑発的ですし、私は人の仕事上の価値について云々する気はありませんが、「成熟した大人として、自分の立場をできるかぎり明確にすることは重要である」と思っています。

自分の立場を明確にするとは、自分で決断するということです。自分で決断するとは、自分の言葉や行動に責任を負うことです。特に、30を過ぎて仕事で責任ある立場を負ったときに、これはとても重要なことだと実感しました。もっともらしいことを言って何でも曖昧にしたり、他者(人・組織・社会・時代)に責任を押しつけていては、信頼は得られないし、成すべきことを遂行できない。

 

但し、自分の意見・立場を明言すると、それに反発したり「傷つけられた」と感じる人が必ず現れます。見知らぬ読者だけでなく、知人が私の文章を読んで「これは自分に対する個人的なあてつけだ」と感じる可能性だってあるわけです。

私自身も、人の文章を読んで自分が非難されているように感じてしまうことがあります。そんな時には一呼吸おいて、まずはこの教訓を思い浮かべるようにしています。

 

それでもなお、やはり「傷つけられた」と感じてしまうことがある。そういう経験は私もよくあります。ですから、このブログをたまたま読んだ知人が私に「傷つけられた」と感じ、私とは付き合えないと思われたり、周りの人間に「彼女はひどい人だから、もう付き合うのはやめましょう」と言いふらされて孤立する、などという可能性も、もちろんあるわけです。「私はひとつの見解を書いたまでで、あなたの人格を攻撃したり否定しているのではない。それでも気分を害してしまったのなら申し訳なかった」と謝罪したとしても、許してもらえないかもしれません。

 

そうなったらそうなったで、仕方ありません。相手が傷つけられたと思い込んでいるのに、それでもなお「仲良くしてネ☆」なんてことは言えません。「もう二度と会いたくない」と言われたら、そこで引き下がるしかない。その程度の覚悟はしたうえで、このブログを書いています。

 

ブログを書くことは、教壇に立つことと似ている

私が勝手に「心の師匠」と思い定めている内田樹氏は、「誰だって教師になれる」とあちこちで語り、書いています。『内田樹による内田樹』のなかで、その根拠をこのように説明しています。

これまでもさまざまな書物で何度も引用しましたが、教育についてかつて述べられた最も本質的な命題はジャック・ラカンの次の言葉だと思います。

 

「教えるというのは非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所に連れてこられると、すくなくとも見掛け上は、誰でも一応それなりの役割は果たせます。(……)無知ゆえに不適格である教授はいたためしがありません。人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っているのです。誰かが教える者としての立場に立つ限り、その人が役に立たないということは決してありません。」(ジャック・ラカン、「教える者への問い」『自我(下)』、小出浩之他訳、岩波書店、1998年、56頁)

(略)

 

「教卓のこちら側」にいる人間は、「教卓のこちら側にいる」という事実だけによって、すでに「教師」としての条件を満たしている。教師は別にとりわけ有用な、実利的な知識や情報や技能を持っており、それを生徒や弟子に伝えることができるから教師であるわけではありません。教師は「この人は私たちが何を学ぶべきかを知っている」と思っている人の前に立つ限り、すでに十分に教師として機能します。この人に就いて学ぶ人たちは、しばしば「彼が教えた以上のこと、彼が教えなかったこと」を彼から学ぶからです。

 

内田樹による内田樹

内田樹による内田樹

 

  

これを読んで、ブログを書くことは、私にとっては教壇に立つことに似ているのだと気づきました。

私には伝えたいことがある。だから、「教卓のこちら側」に立って語る。もしかしたら、誰も聞いてくれないかもしれない。石を投げられ、唾を吐きかけられるかもしれない。

それでも、私は伝えたいからここに立つ。そして、誰かに届くまで、語る、すなわち書く。それが、このブログでやっていることです。

 

そしてまた、書くことは「捨て去る」ことでもある、と最近感じるようになりました。

ひとたび書きたかったことを書き終えれば、そのことについては自分のなかで消化しきってしまい、もはや「どうでもいい」ことになってしまう。そんな感覚に陥ることがよくあります。

 

書いた人間はそれを捨て去るので、読み手は書き手に追いつかず、両者のあいだには常にずれが生じる。

書いたものは、いわば、排泄物。

でも、だからといって価値がないのではない。他者の排泄物を滋養にして、今度は読み手が書く。そのようにして、読むことと書くことは無限の連鎖に組み込まれ、「書くこと」の世界は成り立っている。

 

だから、読んだ者は書くべきだ、と思うのです。

いまの私は、(汚い表現で恐縮ですが)長年「あれが書きたい、これが書きたい」と溜め込んできた宿便を排泄しているようなもの。だから、いささか暑苦しい文章かと思います(^_^;)

とはいえ、私はどうしても、まず宿便を排出する必要があるのです。その先に進むために。

 

長年「書きたい」と思ってきたことを出しきったその先に、私にとってまた別の「書く」ことの意味が生まれてくるのでしょう。

もしかしたら、そこで満足して終わりにするかもしれません。でも今は、「書きたかったことを書く」ことの地平線のその先に、広大な「書く」ことの海が果てなく広がっているのではないかと、そんな気がしています。

 

 

おまけ:ペンネームとアイコンについて

昨年、はてなのあるブロガーさんとお会いしておしゃべりしたことがあるのですが、そのときに訊かれたのが、この2つについて。

 

ペンネームは、わが心の師匠・内田樹氏が多く著している『街場の現代思想』『街場のアメリカ論』などの「街場シリーズ」から「街場」をお借りし、下の名前は単なる語呂合わせで決めました。

ただ「街場」という語を借りただけでなく、内田師匠と同じように、街場の一市民として、地に足のついた、市井の感覚を軸足にして様々な物事について考えたいという気持ちを込めています。「街場のワーキングマザー日記」というブログタイトルも同様です。

ブログ開設前から、内田師匠の本と自分との関わりというのも書きたいテーマのひとつとして温めているのですが、私と同じように私淑している内田ファンは非常に多いと思われるため、なかなか勇気が出せずにいます…が、必ず書きます!

 

そして、このアイコン。ペンネームを印象づける効果を狙ったのですが、お会いしたブロガーさんにも「すっごくインパクトありますよ」と言われたので、「してやったり」という感じです。印章って、アイコンとして意外と見かけませんよね?

ちなみに、この印影は本物ですよ。つまり、印鑑をわざわざ作り、押印したものをスキャンしたのです。

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ウェブで印影を作ってもらえるサービスもあるし、技術のある方は自前で作れるかと思いますが、どうしても、平面的で「のっぺり」しちゃうんですよね。実際の印影の立体感や毛羽立ちみたいなものは再現しきれなくて、それがあるとないとではインパクトが違うので、シャレのつもりで作ってみたんです。「このペンネームで文章を書くぞ!」という気概も込めて。

もちろん、このアイコン制作のために押印して以来、いちども使ったことはありません…。