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豊かな時代の黄昏時に、『33年後のなんとなく、クリスタル』を読む

読書 映画

田中康夫の『なんとなく、クリスタル』(以下、著者ご本人に従い「もとクリ」と略します)と『33年後のなんとなく、クリスタル』(同じく「いまクリ」)を読みました。色々と思うところがあったので、こちらで感想を書いてみます。

※ネタバレありです、ご注意を!

  

33年後のなんとなく、クリスタル

33年後のなんとなく、クリスタル

 

 

「もとクリ」のストーリー

まずは「もとクリ」を先に読んだのですが、それに対する読書メーターの感想はこちら。

 

33年後を読みたくて初読。いやあ、この「ある時代」の空気のまんま切り取り具合と批評性、お見事だなあ。めちゃ面白かった!1980年、団塊ジュニアの私は年長さんだった。中学生の頃はレノマやクレージュの財布や定期入れがどこにでも売っている定番だったので、「こういう時代の名残だったのか」と納得。人気モデルがアニオタを公言する2010年代とは隔世の感があるけれど、消費の積み重ねによって自己が規定され「なんとなく」日々が満ち足りてる感は今も同じ。

 

時は1980年6月。「もとクリ」の主人公は、都心の某オシャレ大学の1年生で、女性ファッション誌の人気モデルも務める由利。由利は、小田急線沿いの某大に通いスタジオミュージシャンとしても活躍する淳一と同棲(彼らはこれを「共棲」と呼ぶ)しつつ、互いに束縛されずに「なんとなく」浮気を楽しみ、「なんとなく」音楽を聴き、「なんとなく」消費をし、「なんとなく」生きている。そこにはなんの悩みもなく、「クリスタル」のような日々が続いているけれど、「あと10年たったら、私はどうなっているんだろう」という漠たる不安も抱えている。ストーリーとしては、まあ、それだけの話。

特徴的なのは、その頃に都心で流行していた洋服のブランド、音楽、お店などの固有名詞がこれでもかと詰め込まれ、それに対して作者が悉く注釈という名のツッコミを入れていること。ストーリー全体を俯瞰する作者の冷静な注釈が見事な当世批評になっていて、新装版で解説している高橋源一郎は、これらの注を「鋭くも強靭な批評の形をした(本文とは別の)小説」と評しています。

この作品を書いたとき、田中康夫氏は中央線の奥地の某国立大に通う現役学生でした。4年生で卒業直前に停学処分を受け、留年してヒマな日々を送っていたときに書いたそうです。3年後に書かれた著者ノートによると、「80年代の東京に生きる大学生を主人公にした小説を、無性に書いてみたくなった」というのが、その動機でした。

 

「いまクリ」のストーリー

そして、33年後。「いまクリ」の主人公は50代後半の「ヤスオ」と3つ年下の由利。なんと、ヤスオは33年前に由利が淳一と付き合う前の(正確には、交際期間が一部被っていた)「元彼」だったのです。

10歳年下の妻とプードルと共に暮らすヤスオは、ある日、由利の親友の江美子とバッタリ再会したことがきっかけとなり、かつての女友達が集う「女子会」に招かれます。都心のアッパーミドルのお嬢さんとして何不自由なく育った彼女たちは、相変わらずアッパーミドルの裕福な暮らしを営み、皇居を見下ろす高級マンションの最上階で、イタリア料理のケータリング(ドミノピザじゃありませんよ)を利用した優雅な昼食会を楽しみます。

大学卒業と同時にモデルをやめ、外資系化粧品会社に就職、独立した独身バリキャリの由利は、仕事のためにこの「女子会」には参加できなかったのですが、ヤスオはそれとは別に由利と2人だけで逢瀬を重ね、江美子とも2人だけで出かけます。相変わらず高級店でデートをし、ちょっぴり淫靡な空気も流れます。33年経っても懲りない面々です。

でも、「女子会」で主に話題になったのは、高齢化であったり、地方の衰退であったりといった社会問題でした。由利がヤスオを誘うのも、仕事で関わることを余儀なくされた子宮頸がん予防ワクチンの問題や、本業とは別に取り組もうとしているボランティア活動について相談するためです。

社会で発言を続け、阪神淡路大震災のボランティアや長野県知事まで務めたヤスオだけでなく、ここに集う元お嬢さんたちも、この33年間それぞれに子育てや仕事をかいくぐり、それぞれの問題意識と向き合いながら生きてきたし、これからも生きていくのです。

 

上流階級の風俗小説をどう読むか

「もとクリ」と「いまクリ」を合わせて読み終え、私は結構深く感銘を受けたのですが、こういうものを「くだらない」「下品」「昭和バブルなブランド至上主義」と一蹴する人も多いのだろうなあと感じました。

実際に、「いまクリ」の感想を読書メーターやアマゾンなどでざっと読んでみたところ、評価は二分しています。田中康夫と同世代~バブル世代あたりまでは高評価が多く、彼らの時代を全く知らない団塊ジュニアより下の世代や、同世代でも「もとクリ」に書かれているような豊かさを全く享受できなかった層は、低評価を下す傾向があるように見て取れます。

登場人物たちは厳密に言うとアッパーミドル(中上流)階級ですが、社会的地位が経済的豊かさや消費の旺盛さと結びついた80年代以後にあっては、彼らは間違いなく「消費社会における上流階級」でしょう。低評価の感想を読んで感じたのは、「上流階級の風俗小説をバイアスなしに読むのは難しいな」ということです。自分にはとても手が届かないような生活が事細かに描かれていると、どうしても羨望や嫉妬、その裏返しとしての怒りや侮蔑や“敢えて装おう”無関心といった感情が沸き起こり、それに直面せざるを得なくなるからです。そういう意味では、この作品はある種の「踏絵」となり得ますね。

もっとも、私自身も、ところどころで「あ~ハイハイ、幼稚園からセイクレッド・ハートな純粋培養お嬢さんでなきゃいけないわけね」とかツッコミながら読む箇所も多々あったので人のことは言えません。現在進行形の同時代を描いているので、自分と切り離して作品を読むことがなおさら困難なのですよね。

但し、そういった悪感情に身を任せてしまうと、こういう作品の本質的な部分を掴まえることは難しくなってしまいます。上流階級の消費生活や通俗性を丹念に描いているだけでダメ出ししてしまうのなら、プルーストの『失われた時を求めて』もフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』も谷崎の『細雪』も、すべて否定されてしまいますよね(どれも大好きです)。もしかしたら、これらの作品も発表当時は同じような批判に晒されたのかもしれませんが。(あ、そこの貴方、「田中康夫プルーストフィッツジェラルドと一緒にするな!」と怒らないで下さい。私は文学作品の優劣を云々できるほどの知識や見識は持ち合わせていませんので、「なんか似てるよね?」と思ったただけです)

もちろん、この作品自体の質を低いと判断する方もいると思いますし、それはそれで私とは意見が違うというだけのことなのですが、それ以前に、「もとクリ」と「いまクリ」双方にしつこく出てくる固有名詞やある種の階級意識に振り回されて、作品を「読む」ことができなかった人も結構いそうだな、という気がします。  

 

「もとクリ」と「いまクリ」は“いま”、“セットで” 読むべし

同時代の風俗小説をバイアスなしに読むことの難しさを語ったばかりですが、それでもなお、「もとクリ」と「いまクリ」は、いま、セットで読むことを是非お薦めします。

「もとクリ」を書いた当時の康夫青年は、まさか33年後にその続きを書くとは想像していなかったのではないでしょうか? この作品で作家デビューし一躍「時の人」になるとは露ほども思わず、内定企業に入社したくらいですから。

それでも、33年経ってこの作品を書いて下さったことに、感謝したい思いです。「もとクリ」と「いまクリ」がセットになることで33年の空白が埋まり、時間的にも内容的にも、ぐっと奥行きと広がりが増したからです。

 

2作品によって点と点が結び合わさることで、時の経過と登場人物たちの成長が描き出されました。ある意味では、教養小説として読むこともできるかと思います。また別途このテーマについては書こうと思っているのですが、個人的に、日記文学教養小説が大好きなんです。

教養小説(きょうようしょうせつ)とは、主人公が様々な体験を通して内面的に成長していく過程を描く小説のこと。ドイツ語のBildungsroman(ビルドゥングスロマーン)の訳語で、自己形成小説とも訳される。(教養小説 - Wikipediaより) 

「いま」を「なんとなく」生きていた由利たちが成長し、「過去」や「未来」を見据えられるようになっている。そして、人ひとりの力の小ささを痛感しながらも、それまでの時代や個人の軌跡に支えられて、まだまだ先の長い「これから」の生き方を、それぞれが真摯に模索している。

そうかと言って、別に修行僧のようにストイックに生きているわけではありません。相も変わらず食事を、ワインを、ファッションを、ときめきを謳歌しながら生きている。「年を取るのも悪くないな」「年を重ねるのが楽しみだな」と背中を押してもらっている気分です。

そしてまた、「いまクリ」では、阪神淡路や東日本大震災を経験して大きな時代の曲がり角にを迎えている「いま」現在、個人がどのように社会的・個人的課題と向き合っていけばいいのかという重い問いに、ヤスオや由利たちを通して軽やかに答えてくれているように思います。そのポイントは、「出来る時に出来る事を出来る人が出来る場で出来る限り」というヤスオの言葉にあり。人生の折り返し地点を迎えて「さて、どうしようかな」と模索中の私にとっても、ヤスオや由利の「これから」を見据える姿勢が励みになりました。

 

「豊かな時代」の「たそかれ時」に佇んで

「いまクリ」で一番好きなのが、ラストシーンです。

ヤスオは行きつけの美容院でカットやカラー、ヘッドスパを受けています。店員や隣席の客との会話を挟みながら、ヤスオは「記憶の円盤」を回して様々なことを思い起こします。

その間に、少しずつ日が暮れてゆきます。「たそかれ時(黄昏時)」です。それは、ヤスオや由利が迎えつつある人生の「たそかれ時」でもあり、彼らとそれ以後の世代が生まれながらに享受してきた豊かな時代の「たそかれ時」でもあります。

「豊かな時代」というのはこの作品に書かれている言葉ではありません(「豊かな世代」という言葉は出てきます)。私がここで言う「豊かな時代」とは、一般大衆が物質的豊かさを浴びるように享受し、物質的豊かさによって文化の豊穣も(味わおうと思えば)味わえた時代、というほどの意味です。

彼らのようなアラ還~アラフィフ世代は、このような「豊かな時代」をもっとも謳歌したことでしょう。団塊ジュニアの私は、多少はそのおこぼれに預かることができたし、その時代を何となく理解することはできます。

「バブル時代に文化の豊穣なんてあったものか、あったのは金だけだ」と言う人も多いかと思いますが、私はそうは思いません。それは主に、夫の影響によるものなのですが。

 

アラフィフの夫は城南育ちで、高校は小田急線沿いのおぼっちゃま学校、大学は三田の文学部でガールフレンドには事欠かなかったという、バブル時代を思い切り享受した一人です。大学卒業後は商社マンとして世界中を飛び回ったり欧州に数年赴任し、国内外で美味しいものを食べ歩き、美しいものを見て歩きました。このあたりは、ちょっとヤスオに似ています。

「もとクリ」のある登場人物が語っているように、スパゲティを食べるときにスプーンを使うのは現地ではみっともないということを初めて教わったのは、夫でした。この他にも、フォークの背にペタペタとごはんを乗っけて食べるのも向こうの人には奇異に映るからフォークの腹に乗せろとか、国内ならいいけれど、パリのグランメゾンで皿に残ったスープをパンで拭うのはNGだといった様々な豆知識も教わったし、ヤスオのように、フレンチやイタリアンの調理法や食材の知識も豊富です。

 

こういうことって、「どうでもいい」と言えば、「どうでもいい」のです。付き合い始めた頃は、面倒くさいなと思ったりしたこともありました。

でも、「文化」ってこうした「どうでもいい」慣習や知識の集積で成り立っているのですよね。抽象的な小難しい概念ではなくて。

 

物質的な豊かさを存分に、過剰なほどに享受した彼らの一部は、こうした膨大な「どうでもいい」ことのなかから自分なりのフィルターで良質なものを選り分けて、自分の財産として残し、そうして残った文化の多くを、壮年期を迎えた彼らが後続世代に残してくれて現在がある。そういう意味で、80年代は今の20代、30代にとっても過去ではない。溢れる物のなかから自分にあったものを選りすぐる術みたいなものは、彼らの世代から引き継がれていると思います。

でも、物質的な意味での「豊かな時代」は、いま確かに終わりつつある。人口が減り経済規模が縮小していくのは明らかで、私たちは別の豊かさを模索している。

そうした時代の「たそかれ時」に、ヤスオや由利は静かに、でもけっこう熱く向き合っています。

 

このシーンを読んでいて、私はルキノ・ヴィスコンティの『山猫』という映画の最後のシーンを思い浮かべました。

 

山猫 Blu-ray

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自らも公爵家の出であるヴィスコンティが撮った、イタリア貴族の没落を描く壮大な物語。その最後のシーン(だったと思います、たぶん)では、バート・ランカスター演じる老公爵が教会前の広場でひとり佇み、頭を垂れて鐘の音を聴いています。その鐘の音は、ひとつの時代の終わりを告げるレクイエムのように響きます。ヤスオにもこのレクイエムが聞こえているのではないかと、私は錯覚しそうになりました。

 

でも、ヤスオは由利のこんな言葉を思い出します。

「黄昏時って案外、好きよ。だって、夕焼けの名残りの赤みって、どことなく夜明けの感じと似ているでしょ。たまたま西の空に拡がるから、もの哀しく感じちゃうけど、時間も方角も判らないまま、ずうっと目隠しされていたのをパッと外されたら、わぁっ、東の空が明るくなってきたと思うかも知れないでしょ」

 

 「た(誰)そかれ(彼)時」は、日の出前の「か(彼)はたれ(誰)時」によく似ている。これから先の「かわたれ時」を見据えて、由利は言います。

 

「『微力だけど無力じゃない』って言葉を信じたいの」

 

私もその言葉を信じたい。きっと誰もが、そう信じたいと願っていることでしょう。

 

 ご参考:

プルーストを読む―『失われた時を求めて』の世界 (集英社新書)

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 ↑これからプルーストを読みたい方は、まずはこちらの入門書から。

失われた時を求めて〈1 第1篇〉スワン家のほうへ (ちくま文庫)

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グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

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細雪 (上) (新潮文庫)

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細雪[東宝DVD名作セレクション]

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↑この映画、おすすめです。とにかく美しい!