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別れの季節

春3月。昨日の昼休み、いつもの百貨店のいつもの化粧品カウンターに、いつもの基礎化粧品を買うために行きました。

 

ここには長く通っているものの、2、3ヶ月に一度、最低限必要なものを買いに来るだけなので、担当してくれる美容部員は決まっていないし、お気に入りの人がいるわけでもありません。

昨日対応してくれたのも初めての方でした。見たことがないので、多分よそのお店から移ってきたのでしょう。買いたいものを伝え、ママ同士のおしゃべりをしながら肌チェックと化粧直しをしてもらって会計を待つ間、横からすっと、Iさんが顔を出しました。

Iさんは、私が唯一名前と顔を覚えている店員さん。10年近く前にこのブランドを使い始めた頃、私はここから数百メートル離れた別の百貨店のカウンターに通っていたのですが、数年前にその百貨店が閉鎖すると同時にIさんはいまのお店に異動になり、私も職場が近かったので、こちらに通うようになりました。

 

「こんにちは」と互いに挨拶し、「Iさんも随分長くこちらのお店にお勤めですよね」と言おうとしたら、彼女が口火を切りました。

「街場さん、実は私、今月末で退職するんです」

「えー、そうなんですか!」

予想外の言葉に驚きの反応を示したあと、自分がそれ以上に予想外の寂しさを感じていることに、また驚きました。

 

ほとんど赤の他人でしかない彼女との別れをこんなにも寂しく感じるなんて、年のせいかもしれません。こういう微かな別れへの寂しさは、年々増している気がします。

子供を産んでからは特に、このように袖振り合っただけの知り合いの大切さというものをひしひしと感じるようになりました。大学時代にひとりぼっちを経験した私は、自分には親友と呼べる人がいるのかなどと他者との親交の深さにこだわっていた時期もあり、それは多くの人が若い頃に苛まれる悩みでもあるでしょう。他者との深い結びつきの経験が人格形成や精神の安定をもたらすのは言うまでもないことですが、このように名前も知らない顔見知りの存在というのも、実は私たちの日常性を大きく支えているように思います。

 

以下の記事にも、既に同じようなことを書かれています。

xkxaxkx.hatenablog.com

 

 

私もこれと同じような経験をしたことがあります。

夫とは、同棲していた7年ほど前から毎朝一緒に通勤していましたが、最寄駅に行く道すがら、晴れた日に必ず見かけるおばあさんがいました。腰がくの字に曲がり、少なくとも80は超えていると思しき彼女は、いつも自宅前の石段に腰かけて、道行く人を眺めるでもなく、ただじっと佇んでいました。

何年か経ったあるとき、彼女が晴れていても現れないことに気づきました。「入院したかな、それとも亡くなったかな?」と夫と気にかけていましたが、その後も姿を見かけることはありませんでした。だからどうということもないけれど、それは確かに微かな喪失であり、日常に針で開けたほどの小さな穴が開きました。もっとも、その穴はすぐに埋まる程度のものでしたが。

 

いまは息子がまったく人見知りなく明るい子なので、近所の商店街の誰にでも自分から笑顔を振りまいて知り合いになります。魚屋、豆腐屋、蕎麦屋、床屋、美容院、鍼灸院。以前は素通りしていたお店も、いまではすっかり顔見知りです。

 

ちょっといいことがあって軽い足取りで歩いていた朝、呉服屋のおじいさんは「いつも笑顔でいいですね」と声をかけてくれました。

明るい色のワンピースを着て息子と出掛けた休みの日には、床屋のおじさんに「今日はまた素敵だねえ」とお褒めの言葉を頂きました。

魚屋のおねえさんは、息子の気まぐれで通園コースを変えただけでも、「昨日は具合でも悪かったの? 大丈夫?」と心配してくれます。

なかには名前を伺った方もいるけれど、大方は顔だけしかわかりません。それでも、ここを通ればこの人が、あの店に行けばあの人がいるというだけで、私の生活の豊かさは少しずつ保たれている。

 

美容部員のIさんも、まさしくそんな人のひとりでした。

行く度に彼女と話すわけではないので、Iさんの人となりなど知る由もありません。それでも、そこに行けばいつも必ず彼女がいて、カウンターのどこかで営業スマイルを見せている。

2年ほど前に転職し、この百貨店は以前より通いづらくなったので、本当は家からもっと近いお店に替えてもいいのです。それでも何となくここに通い続けているのは、Iさんという見知った人がいるという、ただそれだけの理由のような気がします。

もし、ひとりで街中を歩いているときに直下型地震でも起きて、Iさんや呉服屋のおじいさんに偶然出会えたとしたら、私はきっと救われたような気持ちになることでしょう。モノクロの画面でそこだけ色が差したように目に映り、この人が生きていてよかった、と心から思うことでしょう。

親交の深さなんてあまり意味はない。ただ、その人がそこにいる。あの人があそこにいる。それだけで、感謝するには十分です。

 

カウンターで会計が済んだあと。Iさんと、「これからも、どうぞお元気でお過ごしください」「街場さんこそ、どうぞお元気でお過ごしください。いままでありがとうございました」と互いに礼を言い合って去りました。それは通り一遍の別れの挨拶であり、ごく常識的な大人のマナーに従ったまでだけれど、礼節というのは、こういう時のためにあるのでしょう。

3月は、深い悲しみを伴う大きな別れだけでなく、こんな無数の小さな別れで成り立っているものです。

 

おまけ:

卒業の季節ということで、こちらもどうぞ。

machibamachiko.hatenablog.com