※ご注意※こちらは、夫と13年前に付き合い始めてから6年を経て結婚するまでの「バツイチ男と結婚するまでの話」というシリーズものであり、本エントリは2003年7月1日当時のWeb日記の内容をそのまま掲載しています。詳しくは以下の一覧をどうぞ。
バツイチ男と結婚するまでの話 カテゴリーの記事一覧 - 街場のワーキングマザー日記
昨日はカレと私のお付き合い1周年記念日。とはいえ、昨日は月曜日で仕事だったし、週末もお互い仕事で疲れていたからカレの部屋で爆睡しただけだし、なーーーーんにもしなかったけど。
この1年を振り返ると、ほんと色々あったなー。
付き合い始めた頃、カレはボロボロだった。物心ついた頃から金にも女にも環境にも殆ど不自由なく生きてきたカレにとって、サラリーマン時代の貯金(貯める気は一度もなかったらしいが、とにかくお金が余るほどあったらしい)が底をつき、仕事も思うように見つからないというのは、恐らく人生で初めての社会的挫折(精神的挫折は経験していたけれど)だったに違いない。カレは殆どそういう素振りを見せなかったけれど、精神的にかなり厳しい時期だった。そんな時期だったからこそ、私はカレの生活に光や喜びを与えたかった…もし出来るものなら。
でも…私自身、結構厳しい時期だった。結婚・家庭願望が強かった私にとって、28歳という年齢は無意識のうちに結婚のひとつの目安になっていたから。カレに対する自分の思いにどこか自信が持てず、「そんな結婚対象とは程遠い相手と付き合ってどうするのか?」という自分自身と家族の無言のプレッシャーのおかげで激しく葛藤していた。
そんな中、カレとのセックスの最中に卵巣出血で病院に運ばれ、手術を受けた。
「お前の親に何を話したらいいのかわからない」
と言い、これから手術を受ける私をひとり残して帰ってしまった彼。そんな彼を、そしてそんなカレと付き合っている私を、手術直後になじる母。
手術の翌日カレがやって来た時、カレの前で初めて大泣きしてしまった。自分に自信が持てずに逃げてしまったカレと、家族の思いと、そして自分自身の葛藤とに押し潰されて、張り詰めていた糸が一気に切れてしまったのだ。
カレは言葉少なだった。とても慎重に、言葉をひとつひとつ紡ぐように声を発した。
「俺と家族の間に挟まれてお前がすごく辛い立場にいるってことは、本当によくわかるよ」
「俺にできることはしてやりたいと思う。でも、俺にはお前やお前の親に約束してやれることが何もないんだ。俺自身のことすらよくわからないんだからさ」
「愛してるよ、マチ子。俺にはそれしか言えないもんなあ。本当にそれしか言えないんだよ。もしお前が俺と別れて、結婚するのに相応しい男を捜すんだとしても、俺にはそれに反対する権利もないよ」
…なんて情けない男だろうねえ~。
それでも、これはカレの精一杯の誠実さなのだ。カレの自信のなさと、臆病さと、困惑と、誠実さと…それがわかっていたから、それ以上私の要求を主張することはできなかった。でも、かといってカレのことを受け止める余裕もなかった。お互いが自分に精一杯で…でも、そのせいで相手を傷つけまいと、お互いに自分の主張を通すことをグッとこらえていた。
その後も葛藤は続いた。手術前は無言だった両親(といっても殆ど母)のプレッシャーに言葉が加わった。両親以上に最大のプレッシャーだった姉とも衝突した。カレも私も、愛情を素直に表現することを恐れた。
転機が訪れたのは、5回通ったカウンセリングのおかげだった。カレへの愛情を確信でき、お互いに臆病になっていては埒が明かないのだから、自分のほうからドシドシ愛情表現していこう!と開き直れるようになった。家族とも根気強く対話した。
状況の厳しさの中にただうずくまって混乱していただけだった状態から、状況を変化させるために自分から働きかけられるようになった。
それからは、たまーにケンカになることもあるけれど、二人の関係は順調に進展していると思う。ケンカはそのまま決裂させない。私のほうから働きかけて、必ず発展的に、互いの理解がより深まるように終わらせている。カレのほうも、キレ易いところはあるけれど賢い人なので、互いに辛抱強く、理性的に話し合う。
自分の中で自然発生してくるわけのわからない感情、というのは別として、他者との関係性の中で生じる感情には必ず理由がある。あのときいきなり不機嫌になってしまったのはどうしてなのか? 怒ってしまったのはどうしてなのか? その時は感情に任せて混乱していても、冷静になって振り返れば必ずわかる。自分でもわけのわからない点があったとしても、少なくとも、どういった点に関してわかっていないのかは明らかになる。わかったときには、「もう済んだことだから」と水に流さず、私達は必ずその「理由」を相手に説明する。説明されれば理解できる。互いに妥協点やルールを見出し得るところは今後のためのミニ協定を結び、価値観の相違からどうしても相容れないことに関しては、それ以上に詮索しない。
いちいちこんな手続をとることは面倒だ、という人もいるだろう。でも、どんな小さいことでも、この手続を踏むことが互いの関係をより良いものにしていく王道なのだということを二人とも知っているので、これだけは疎かにしない。二人とも感覚&直感型というよりは理性&感情型なので、このやり方が性に合っているんだろう。こういうことが上手く出来るようになったのも、カウンセリング以後かな。
カレがある日こう言った。
「ま、付き合い始めた頃はいろんな意味でどん底だったからさ、後は良くなるだけだし、悪くてもまた最初の頃に戻るってだけの話だよ」
こんな前向きなことを言ってくれるなんて、1年前はとても考えられなかったよ!
あ、でもね、ほんとにほんとーの付き合い始めは、ラブラブメールが来てたっけ。ああいうのはもうないな~。--; たとえば、こんなの。
さびしいな、さびしいな、とってもさびしいな。嵐の夜に一人でいると、ひとが恋しいな、愛するひとにそばにいて欲しいな というわけであんましさみしいから、マチ子といっしょに楽しみたいことを考えるこ とにしました
1 シチリアでダイビングをする。タオルミナがいいかな、『グラン・ブルー』みたいに。アマルフィとかもいいけどね。んで疲れたら、海っぺりのリストランテのテラスでブラッドオレンジジュースを飲んで、スプマンテを飲んで、野菜の前菜を食べて、松の実と茴香とイワシのパスタを食べて、セコンドは、そうだな、シチリアだからカジキの串焼きか、あるいは牛の炭火焼き。ドルチェはさっばりしたレモン・ソルベがいいだろう。仕上げにエスプレッソとグラッパ。いいだろ?
2 東北の山奥の温泉にいく。湯の色は乳白色の硫黄泉で、回りに人家のない一軒宿で、宿のおじちゃんとおばちゃんが素朴で、山菜や地酒がうまくて、うるさい客がいなくて、東北の霊気がただよっていて、しかも自然の中に露天があるといいなあ。いっしょに露天につかって、ビールを飲んで、囲炉裏端で酒を飲んで、地元の質素だけど味わい深いものを食べて、マチ子の膝枕でゆっくり折口や柳田を読む
3 すこし季節はずれの長野・高原・湖畔のリゾートホテル。森の中を散策したり、湖で泳げたら泳いだり、ボートを漕いだり、湖畔を見晴らすテラスでワインを飲みながら景色を眺めたり、音楽を聴いたり。いいなあ
4 バリ島の“アマン”グループのいずれかのホテルに滞在。ひたすらプールで泳ぐ→本を読む→また泳ぐ、のサイクルを繰り返す。のんびりプルーストでも読みたいな
旅行がしたいし、食事と酒を楽しみたいし、恋人と抱きしめ合いたいし、友達とバカ話しに興じて笑い転げたいし、世の中の役にたつことをしたいし、本・映画・音楽・美術を楽しみたいな。
うん、だんだん元気が出てきた! よかった!
…うぷぷぷぷ、何だか可愛い(笑) 基本的には、べらぼーにロマンチストなのよね。
アマンは予算的に無理だけど、とりあえずバリ島の願いは叶うね♪ イタリアも東北温泉旅行も高原のリゾートホテルも、ぜーんぶ行こうねっ!
四十路マチ子のコメント:
めでたく1周年を迎えた2人です。おめでとう。
夫のラブメール、ほぼ1年前の2002年7月11日付の日記にも出てきてますよね。よっぽど嬉しかったんでしょうね。
よく読むと、別に「マチ子が好きだーー!」とか書いてあるわけではなく、自分がしたいことを列挙してるだけですけど、絶望していた夫が、自分と付き合い始めたことで未来に希望を抱けるようになったということが、とても嬉しかったのだと思います。
ここに書いてあるケンカへの対処法は、基本的にいまも同じですね。このような「面倒」な手続は、出産後の育児や家事分担の話し合いに、特に有効だと思います。
もっとも、そのときはそのときで、思ったようにうまく分担できずにケンカしたりもしてましたけどね。
ちなみに、夫のメールに書いてある「マチ子といっしょに楽しみたいこと」は、大体すべて叶えたんですよ。このメールを意識していたわけではないのですが、気づくとすべてクリアしていました。
このメールの翌月あたりに初めてバリ島に行ってすっかり気に入り、その後も2回訪れています。きっと、息子がもう少し大きくなったら、また家族で行くと思います。
シチリアやアマルフィには行ってませんが、イタリアには行きました。フィレンツェからスタートして、ローマまでレンタカーで南下する9泊の長旅でした。
高原や湖畔のリゾートホテルというのは、長野も含めて何度も行っています。私はこのあと、5年に渡り計3回プロポーズをするのですが、最後のプロポーズは箱根・仙石原のリゾートホテルでしました。
そして。新婚旅行は、東北各県を巡る4泊5日の旅でした。
お後がよろしいようで。
さてさて、この5年後、2人はどのようにして結婚へと至るのでしょうか? 待て次回っ!