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髪結女と伊達男

生き方 恋愛・結婚・夫婦

お久しぶりです。通信制大学の方がしばらく忙しかったのと、このエントリを書くのに時間がかかったために、すっかり間が空いてしまいました。今回のエントリは、前回の記事の後編―というよりも、実は、こちらが本題です。 

前回の記事、「結婚相手の選び方」で、私は次のように書きました。

つまり私は、今を起点とするのではなく、死の瞬間に結婚生活を振り返ったとき、「幸福だった」と言えるかどうかを再重要視しているのです。

結婚に限らず、私は何事も、「死の瞬間に「幸福だった」と心から言えるかどうか、感謝の念に溢れて死ねるかどうか」をひとつの判断基準にしています。

これはどこかで読んだ借り物の考えではなく、母方の祖父母、特に祖母の死の思い出を通して生まれたものであり、自分の中に深く内面化された指針になっています。

そのいきさつを、だいぶ長くなりますが(9207字)、書いてみたいと思います。かなり重い内容を含んでいますので、軽い読み物をご希望の方は、お読みにならない方がいいかと思います。

 

祖母が大嫌いだった

私の家は、母方の祖父母、両親、8つ上の異父姉(母は再婚)と私の6人家族でした。

3世代同居の昭和の家族と言えば聞こえはいいものの、内実は滅茶苦茶。祖父母は70後半を過ぎても毎日喧嘩が絶えず、食卓でも些細なことで毎回口論が始まります。母は祖父母がいつケンカを始めるかと常に警戒し、子供のことはそっちのけ。われ関せずの父は家ではいつも酔っぱらって現実逃避し、そのことに腹を立てる母と父もまた喧嘩を始めるのでした。

小学校低学年の私と中学生の姉が、2階の子供部屋でそれぞれ机に向かっていた時のこと。階段を上る足音と祖母の叫び声が近づいてきたと思った瞬間に子供部屋のドアがバタンと開き、祖母が姉に向かって「おまえ助けておくれよ!」と懇願。すると、後ろから80を過ぎた祖父が追ってきて祖母に拳を奮おうとし、祖母も応戦。2人ともヨボヨボなので力が入らず腕を振り回しているだけで、今思えばいささか滑稽ではありましたが、中学生の姉は「2人ともやめてよ!」と叫びながら必死で止めようとし、幼い私は怖くてひたすら泣き叫ぶ。なかなかの修羅場でした。両親は共働きだったので、母が帰宅するまでは歯止めが効かなかったのです。

明治生まれの祖父母は、いまどきのジジババと違って孫になど興味はなく、いつも仏頂面で私は苦手でした。特に嫌いだったのは、いつも顔をしかめてブツブツと愚痴ばかりつぶやいている祖母の方で、祖父がカッとなって暴力を奮いそうになるのも、大抵は祖母のつまらない挑発が招いているものであり、正直なところ、「なんてイヤなババアだろう」と思っていました。

 

祖父の最期

小学4年生の夏、祖父の死期が近づいていました。

もうこれで最後の別れになるかもしれないから、家族みんなで病院にお見舞いに行こうという話になり、母は決して見舞いに行こうとしない祖母も誘いました。祖母は「あたしゃあイヤだよ」と頑なに拒否していたものの、最後には折れて一緒に行きました。

それでも、祖父とは決して目を合わせようとさえしない祖母。私は「せめて最後くらい何か話せばいいのに」とヤキモキしていました。

 結局、祖父と祖母は一言も交わしませんでした。母が「おばあちゃん、本当に何か話さなくていいの?」と念を押しても、「何も話すことなんかないよ」と病室を出て行こうとする祖母に、祖父がぼそっと言いました。

「ばあさん、ごめんな」

全員が、固唾を飲んで祖母を見つめました。

でも祖母は、何も言わずに立ち去りました。

幼い私は、無性に腹が立ちました。2人の間にどんなことがあったのか知らないけれど、死を目前にして頭を下げている相手の言葉を無視するなんて。帰りのエレベーターの中で、「おばあちゃん、本当にいいの!?」と思わず声を荒げたものの、「マチ子、もういいよ」と、溜息交じりに母に制止されました。

その後ひと月ほどで、祖父は息を引きとりました。祖父の死顔は、とても静かで穏やかなものでした。

 

祖母の介護、祖母いじめ

祖父の死後、祖母の底意地の悪さはますます酷くなりました。

体が衰えていき介護を要するようになってからも、世話をする母や姉には悪態ばかり。特に、病弱で高校を中退し家にいた姉は、「共働きの母親のかわりに家事を仕込んでやる」との理由で祖母にそれは厳しく家事を仕込まれた上に、何をやってもダメ出しをされるので、我慢が限界に達していました。

ある時など、祖母の一言にキレた姉が思わずハサミを握りしめ、「刺してやろうか!本当に刺してやるよ!」と、震えながら祖母に刃先を向けたことがありました。私はその時テレビを見(るフリをし)ていたので、あまりよく覚えていないのですが、祖母が直前に「刺してみろ」と挑発したように記憶しています。もちろん、実際に刺したりはしませんでしたが。

祖母は「お前はなんてことするんだよ!」「〇子(母のこと)、助けておくれよ!」と騒ぎ立てたものの、誰も姉を責めたりはしませんでした。皆、姉の気持ちをよくわかっていたからです。

さらに、祖母は母や姉に直接悪態をつくだけではなく、同居していない娘や息子(母のきょうだい)にも、「〇子や△子(姉)にいじめられている」「私のお金を盗んでいる」などと、嘘を言いふらしていました。なぜ私がそれを知っているかと言うと、母の留守中に訪ねてくる叔(伯)母たちに、11やそこらの私の目の前で、祖母があることないこと吹聴していたからです。

今にして思えば、このあたりは、アルツハイマーの症状が悪化していたことも大きな原因だったのだと思いますが、叔(伯)母たちは皆、祖母の言うことを真に受けました。私が「そんなことないよ、おばあちゃんの言ってることは間違ってる!」と言おうとも、「子供は余計な口出しするんじゃないの!」とピシャリと言われて終わりでした。

(伯)たちの中には、きょうだい間に嘘を言いふらして攪乱する虚言癖のある人間がいたこともあり、母はこの時期、きょうだいに総スカンを食らって孤立してしまいました。当時は介護保険もなく、介護用ベッドのレンタル代、オムツその他の諸経費、時として発生する入院費用などに月平均で30万円ほどかかり、母が働かないわけにはいかなかったのですが、介護に手も金も出さない彼女たちは、ただ「実家の土地家屋の権利を独占するうえに、ろくに母親の面倒も見ないで働いている」と捉えていたようです。

私は祖母が許せませんでした。子供は皆、母親の味方です。私にとって祖母は、「母や姉を苦しめる張本人」でしかなかったのです。

何とかして、祖母に復讐してやりたい。そう思った私がしたことは、祖母いじめでした。あまりにも下らないことですが、茶の間で祖母がテレビを見ているときにわざとその前に座り、祖母の邪魔をしてやったのです。祖母を傷つけるわけにもいかないので、子供の私には、それくらいのことしか思いつかなかったのです。

しばらくこれを続けていたのですが、ある日とうとう、祖母が母に言いつけました。母は理由も聞かずにカンカンになって私を叱りつけました。私はただ泣きじゃくって謝りました。理由は言えませんでした。

 

髪結女と伊達男

若い頃の祖父母の写真を見ると、どちらも日本人離れした彫りの深い目鼻立ちで、とても華やかです。2人は近隣では美男美女カップルとして有名で、母は今でも近所の人に、「あなたのご両親は本当に美男美女だったわよね!」と言われることがあるそうです。

そんな2人に、何が起きたのか。祖母は、なぜあんなにも祖父を憎み、なぜあんなにも意地悪い般若のような老婆になってしまったのか。その疑問は、祖母の生前から抱いてきました。

 

祖母は、とある地主の家系に生まれました。10代の頃、嫁入り修行のために都内のお屋敷に女中奉公に出ており、そこに間借りしていた書生が初恋の相手だったそうです。

インテリ書生との恋は実らず、奉公が明けた後は、髪結いをしていました。子供の頃、たまに祖母に髪を結ってもらうと、日本髪のようにギュウギュウと髪を引っ張られてこめかみが痛くなり、登校してから結い直していたのを覚えています。

姉はよく、祖母が銀座や青山あたりの地理や老舗店をよく知っていることに驚いていました。美人で遊び好きで流行に敏感な髪結女。祖母はどうやら、「ハイカラ」な娘だったようです。

 

そんな祖母が見合で結婚させられたのは、クリーニング職人の祖父でした。書生に恋したインテリ好きの祖母にとって、学がなく、いささか粗野なところのある祖父は、最初から気に入りませんでした。

しかし、職人とはいえ、祖父は在外公館が多い土地に店を構え、顧客の多くは外国人で、数名の職人と女中を雇っていました。近所の子供たちは裸足に下駄を履いていたのに、一家の子供たちは革靴を履いて人力車で移動するという羽振りの良さ。背が高くハンサムな祖父は、誂えもののスーツにパナマ帽をパリッと着こなし、かなりダンディで目立つ男でした。この頃はそれほど派手に喧嘩することもなく、2人は合わせて2男7女もの子を儲けました。母は、6番目に生まれた四女です。 

すべてを変えたのは、東京大空襲*でした。この時、母は6歳。9人の家族(次女は疎開中、七女はまだ生まれていませんでした)は、全身に水をかけ、3人ずつに分かれて命からがら代々木公園に逃げ延びて、家族全員無事でした。しかし、夜が明けて戻った自宅は焼けてはいなかったものの、防火水を浴びて高価なクリーニング機材が全滅。終戦後、祖父は隣県にあるメーカーの工場(おそらく、戦中までは軍需工場だったのでしょう)で職をみつけ、一家は社宅に引っ越しました。わずかに残った家財道具を大八車に積み、皆で交替で牽きながら。この社宅を後に買い取ったのが、私の実家です。

*母は「東京大空襲」と記憶しているのですが、記録によると、1945年3月10日の東京大空襲では皇居の西側に被害は出ていないようなので、5月29日の山の手空襲かもしれません。(参照:東京大空襲 - Wikipedia

 

それ以後、祖父母は激しくいがみ合うようになった、と母は記憶しています。やる気をなくした祖父は酔っ払って時には暴れるようになり、もともと贅沢好きだった祖母にとって、夫の暴力と貧乏生活は耐え難かったのではないか。その二重苦が、祖父への憎しみに繋がったではないか。それが、母なりの分析でした。

この説明に一応は納得したものの、本当にそれだけだろうかと、いつも心のどこかで引っかかっていました。祖母の憎しみ、人間への不信は、必ずしも祖父だけに向かっていたのではありませんでした。友人と呼べるような人もなく、自分の子供たちにも、決して本当の意味で心を開こうとはしなかったと、少なくとも私には思えたからです。

 

祖母の最期

中2の春。祖母にもいよいよ最期のときが近づいてきました。

これは死後しばらく経ってから聞いた話ですが、祖母の容体が悪化して入院した際、これが最後だと覚悟した母は、ベッドに横たわる祖母の手を取り、こう言いました。

「ねえ、お母さん。何か言いたいことある?言いたいことがあったら、何でも言っていいんだよ?」

祖母は弱っていたこともあり、もう何も言いませんでした。

ただ、涙が頬を伝うだけでした。

 

家に運ばれた祖母の死顔は、祖父とは対照的でした。生前と同じように眉根をしかめ、一種異様な凄味がありました。どちらの時も家で葬儀を執り行ったので、棺に入れられるまでは遺体を客間に寝かせ、その横で皆ふつうに身支度をしたり、葬儀の準備をしていたのですが、祖父はこの時点で既に「もの」へと変質しつつあったのに対し、祖母の遺体は死んだとは思えない強いエネルギーを放っており、誰もが生の気配を感じました。私も何度か話かけられたように感じて、その度につい振り返りました。祖母は、死しても全身で何かを訴えていました。

出棺の時。葬儀を取り仕切ることに精一杯の母は、泣いている余裕はありませんでした。母にさんざん文句だけ言っていた叔(伯)母たちは、泣きじゃくって祖母に群がりました。そして、祖母から少し離れたところで叔(伯)母たち以上に号泣していたのは、姉と私でした。

私は祖母が大嫌いでしたが、悲しくて悲しくて声を上げて泣きました。親戚が多いので、身内の葬儀はもうこれで4回目でしたが、これほどに切り裂くような悲しみがこみ上げたことはありませんでした。

9人の子供と、20人近い孫たちに囲まれていながら、祖母の死はあまりにも孤独でした。祖母は、誰も信頼せず、すべてを恨み、すべてを赦さずにこの世を去った。こんなに寂しい死があるだろうかと、痛切に思ったのです。

 

その夜、祖母の遺骨と位牌を目の前にして、きょうだい間で相続をめぐる激しい言い争いが起きました。祖母は私たちが住む土地家屋と、わずかな貯金を残しただけで、土地家屋はそのまま今住んでいる父と母が継ぐことになっていましたが、2、3人の叔(伯)母が過去のことを持ち出して抗議をし、賛否を巡りまるで泥仕合のような口論となったのです。何も知らない従兄弟たちは、初めて見る大人たちの醜い争いに戸惑いポカンとしていました。こんなものは見慣れていた私(もちろん姉も)は、言いたい放題の叔(伯)母たちと、母を全く援護しようとしない情けない父に歯噛みし、腹の底が煮えくり返るようでした。

私はとうとう堪えきれず、「もう、いい加減にしてよ!」と大声で怒鳴りました。「おばあちゃんの前できょうだい喧嘩してどうするの?」「お母さんとお姉ちゃんが可哀想だよ!!」と、泣きじゃくり、途切れ途切れになりながらも、必死で叫びました。本当は叔(伯)母たちに投げつけてやりたい言葉がもっともっと沢山あったけれど、中学生の私には、これだけ言うのが精一杯でした。何人かの叔母や叔父が、「ごめんねマチ子、こんな思いさせてごめんね」と、泣きながら謝りに来ましたが、私は怒りと悲しみと憎しみでいっぱいでした。

この夜を機に、一番の急先鋒だった長女は、きょうだいと絶縁しました。彼女には、彼女なりの譲れない何かがあったのでしょう。

自分の遺骨の目の前で、子供たちがこんな言い争いをすることになったのも、畢竟、祖母自身が招いたことなのではないか。私は後々そんな風に思いました。なにせ、祖母は、長女には次女の悪口を言い、次女には三女の悪口を言い、三女には四女の…というように、子供たちを自分のその時々の感情の捌け口にするようなところがありましたから、特に娘たちは、それぞれが、それぞれの立場で、母親(祖母)と他の姉妹に対する複雑な思いを抱えているように、私には感じられたのです。

 

光のなかへ消えゆくように

その後も、祖母の人生とその死について、私は繰り返し思いを巡らせてきました。その度に、祖母のような死に方だけはしたくないという思いを強めてきました。祖母は、私にとって一番の反面教師なのです。

心を閉ざし、人を信じること、赦すことを放棄したために、どうしようもない孤独の中に死んでいった祖母。

私は、心を開く勇気を持ち、人を信じ、人を赦し、人生を楽しみたい。そして、沢山の大切な人たちとこの世界に、胸いっぱいの感謝の気持ちを抱きながら、光のなかに消えていくようにこの世を去りたい。

そして、勝手だけれど、夫にもそんな死に方をして欲しい。

8つ年が離れていることもあり、夫は自分が先に死ぬつもりでいるし、私もなんとなくそんな気がしています。高齢者医療のニュースなどを見ていると、夫はときどき、「マチ子、俺のことちゃんと看取ってね」などと言うことがあるのですが、私は「うん、ちゃんと看取るから大丈夫!」と応えますし、その気マンマンです。夫にどれだけのことができるかなんてわからないけれど、私はしっかり夫を看取り、やがて同じ墓に入るのだ、と心に決めています。いつもうまくいくとは限らなくても、私は夫としっかり向き合って共に老いていきたいのです。

祖父母のような悲しい夫婦には、何としても、なりたくないのです。

 

後日談

2年ほど前、孫に会いに遊びに来た母と話をしていたときに、ふと改めて訊いたことがありました。「結局、おばあちゃんは、おじいちゃんの何があんなに赦せなかったんだと思う?」と。

すると母は、それまで私が聞いたことがなかった事実を教えてくれました。

これは、母自身も姉たちに知らされたことらしいのですが、戦前、祖父には何人もの女性がいたのです。そして、母たちには、異母きょうだいがおそらく3、4人はいるのだと。幼かった母は知らないけれど、祖父母は、山の手にいた頃から、度々そのことを巡って口論をしていたのでした。

「マチ子も、もう所帯を持ったことだから言うんだけどね」と断りながら、母は続けました。「一番大きな原因は、結局は、嫉妬だったのかなあと、今は思ってる」

 

私はこの時、何かがぐらりと大きく揺らいだのを感じました。そして、オセロの一手が次々と黒を白に反転させていくように、自分の中で長年かけて形成された「祖母の物語」に次々と大きな修正が加えられていく様を、頭のなかで必死に追いかけました。

もちろん、嫉妬だけではないでしょう。戦後の諸々も大きな要因だったのでしょう。子供たちがあずかり知らぬ事実も沢山あることでしょう。

でも、一番大きな発見は、祖母はおそらく、どうしようもなく祖父を愛していたのだろう、ということです。

「粗野な男で、最初から嫌いだった」という言葉とは裏腹に、祖母は祖父に惚れてしまっていたのでしょう。そうでなければ、他に女が何人もいると知りながら、どうして20年に渡って9人の子供を産み続けることができたというのでしょうか。

私は、6番目の子である母の記憶によってしか、祖母の人生に思いを馳せることができませんでした。母が生まれる前に、2人には、10数年の歳月と5人の子供があったというのに。

気位が高く美しかった祖母にとって、それがどれだけの屈辱の日々であったのか。それでも戦争を乗り越え、9人もの子を育て上げることが、どれだけ大変なことであったか。

そして、祖父に「ばあさん、ごめんな」と言われたとき、祖母はどんな思いで、その最期の言葉を振り払ったのか。

私はまだまだ、祖母という人を知らなさ過ぎる。つくづく、そう思いました。

 

そうかといって、「祖母のような死に方はしたくない」という思いに修正が加えられたわけではありません。むしろ、改めてその思いを強くしています。

でも今は、祖母への嫌悪や憎しみからそう思うのではありません。祖母の人生に思いを致し、そこから最大限の教訓を引き出して自分の人生を生きることが、私なりの祖母への弔いなのだと、勝手に思っています。

 

長いあとがき

以上で、「祖母の物語」は終わりです。そしてこれは、「祖母の思い出をめぐる私の物語」でもあります。

この「物語」を下敷きにして生み出されたのが、前回のエントリで書いた、私にとっての「結婚相手の選び方」なのでした。もちろん、このタイトルは逆説的表現であり、「結婚というものをどう考えるかも、結婚相手といかに付き合うかも、結局は自分の認識と決意次第」というのが要点だったのですが、大学の卒論テーマ報告の締切が迫っていたので、いささか説明不足のままアップしてしまいました(^^;;

 

祖母の思い出については、もう何年も前から、どこかに書かねばならないことだと思っていました。何よりも自分のために。

そして、とりあえず今の自分に書けるだけのことを書き切ってみて、これは一つの「物語」に過ぎないのだと気づいたのです。

最初のうちは、祖母にまつわる自分や家族の記憶をもとに、自分が見聞きしたこと、それに対して自分が取った行動や感じたことを、できるだけ誠実にありのまま書いた「ノンフィクション」…の、つもりでした。

でも結局のところ、私がしたことや感じたことは、すべて私自身の人間や世界に対する認識に基づくものであり、ここまでに書いたことは、私というフィルターを通して生まれ出たひとつの「フィクション」に過ぎません。

 

さらに言えば、前のエントリに書いた私の結婚観や、「死の瞬間に「幸福だった」と心から言えるかどうか、感謝の念に溢れて死ねるかどうか」を基準とする人生観も、現在進行形の私の「物語」の一部でしかありません。

それに改めて気づかされたのは、前のエントリに対し、「ずっと一緒にいたい」という気持ちだけで十分ではないか、といった反応がいくつか寄せられたことです。

「ま、そりゃそーだよね」と、思いました。確かにそれで十分なのです。

でも、上記のような「物語」の中を生きてきた私にとっては、「それでは、『ずっと一緒にいる』とはどういうことなのか」を、十分に考え抜く必要がありました。結婚して死ぬまで苦楽を共にすることは、そんなシンプルな言葉では片付けられない極めて難しいことなのだという例ばかりを、祖父母や父母に見せつけられてきたからです。

そして、そうしたすべてを考慮に入れたうえで、「ずっと一緒にいたい」と思える人と結婚したつもりです。

 

人は誰でも、ある「物語」あるいは「文脈」の中に生きていると言えるでしょう。だから、まったく同じ価値観を持つ人は誰もいない。個々の「物語」には、本当の意味での「事実」も「真実」もない。せいぜいが、「真実」のほんのひと欠片ほどのものでしょう。

それでも、そうした自分だけの「物語」があるからこそ、私たちは前に進んでいける。「物語」が私たちを駆動している。そして、その「物語」は刻一刻と変化し紡がれている。

私は大した読書家でもないし、文学論といったことを深く考えたこともなかった…というより、考えてみようとしても、よくわかりませんでした。でも、不思議なことに、このエントリを書き上げたことで、一般的にいう「物語」や「小説」といったものの価値について、少し理解できたような気がします。

様々な人間が、個々の「物語」にどのように突き動かされて生きて(あるいは死んで)いくのか。それが見事に克明に描かれているとき、読み手はそこに立ち上がる「真実の欠片」に心を揺さぶられる。それが「物語」の力なのかな、と。

そして、たとえ素人のぎこちない文章であっても、そこに書かれた「物語」に何かしらの「真実の欠片」を見出して感動することがいくらでもある。だから私たちは、名もなき人々のブログを覗き見たくもなるのでしょう。

下手な文章でどれだけ伝わるかわかりませんが、私のこのエントリにも、何がしかの「真実の欠片」が埋め込まれ、それがたったひとりの人にでも伝わることを願っています。