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【お知らせ】美術鑑賞ブログ始めました。

タイトルのとおりですが、美術鑑賞ブログを始めました。

machibamuseum.hatenablog.com

 

サブタイトルにあるように、いつも短い時間で複数の展覧会を駆け廻っています。とてもじゃないけど、優雅な美術鑑賞の午後…なんて感じではありません(^_^;)

 

世の中には美術鑑賞ブログが数多あり、いまさら目新しいことが書けるわけでもないのですが、個人的な記録として残していくことにしました。こちらのブログとは違って適当な内容ですが、ちょいちょいと独自の視点を織り交ぜながら書いていくつもりです。学術的な視点については、一芸術学部生としてあまり迂闊なことも書けないし、控えめに、たまーに、盛り込もうかと思っています…。(←弱気)

 

少しでもご興味のある方は、チラ見してみて下さいーm(_ _)m

 

以上、お知らせでした!

本丸を、攻めろ。

あーーー、ショックです。

数日前のことなのに、いまだショックが冷めやらず、ずっとそのことばかり考えています。

 

それは、通信制大学の准教授、A先生の言葉。

あまりにも正論で、あまりにも身に沁みて、返す言葉が見つからないくらいでした。

 

大学の仲間数名と久々に集まって、A先生を囲んで飲んだときのこと。私がやりたい分野はA先生のご専門とは違うので、直接教えを乞うたことはないのですが、行事でのスピーチや友人たちの口コミから、学生思いの熱血先生だということは、それとなく知っていました。

 

その日集まった仲間の半分は、既に学部を卒業し、同じ通信制修士に進んでいます。そのうちのお一人が、A先生に、私ともう一人の学部生を紹介してくれたのです。「この2人、卒論を前にして今年度は休学するんですけど、何かアドバイスしてあげて下さい」と。せっかくの機会なので、私が卒論テーマに目論んでいることや、そのテーマを選んだ理由などを聞いて頂きました。

 

実は、私が卒論テーマに選んだことは、一番やってみたいと思っていることとは少し違います。もともとは漠然と美術鑑賞が好きなだけで、美術史の知識もろくになかった私にとって、いきなりそんな壮大で抽象的なテーマを掲げるのは明らかに無理だと思い、学部生として比較的取り組みやすい、基礎的なテーマを選んだのです。

つまり、いきなり本丸を攻めるのは無理だから、まずは外堀りを埋めようという作戦。多くの先輩や先生たちに、「とにかくテーマを絞り込め、学部生として実現可能な研究をしろ」と口を酸っぱくして言われてきたので、これは妥当だと考えていましたし、ゼミの先生にもそれでいいと言われていました。

でも、実現可能性ばかりを重視していたので、最初からテーマを絞り込み過ぎているなあと薄々気づいてはいたのです。休学の理由は色々あるものの(こちらを参照)、これまでの下調べを白紙に戻して、休学中に改めてテーマを考え直そうというのも、その理由のひとつでした。

 

すると、A先生に訊かれました。「そもそも何をやりたいの?」と。

いや、実は、本当はこんなことを考えているんですけど、こんな大それたテーマを掲げてはダメですよねぇ…と、取り組みたいテーマをおずおずと話してみると、力強く返されました。

 

じゃあ、それをやればいいじゃない!

 

…えええ~~っ!? たかだか学部生の分際で!?

 

「何言ってるの、学部生だからこそ、一番やりたいことをテーマに掲げなきゃダメなんですよ!」

「あのね、生意気でもいいし、見当違いでもいいの。見当違いだったら、教員がダメ出しするから。でも、そこで『はい、そうですか』って諦めちゃダメなんだよ。ダメ出しされたら、そこで初めて足りない部分を補えばいいんです」

『私は基礎がなってないから、まずは基礎を固めなくちゃ』なんてやっていたら、自分が本当にやりたいことには一生かかっても取り組めないよ。とにかく、壮大でも無謀でもいいから、学部生だからこそ、一番やりたいことに取り組まなくちゃダメ!」

「いいじゃない、その(私が本当にやりたいと思っている)テーマ。面白いよ、そこまで考えてるんだから、きっとできるよ!」

「いいんだよ、壮大で。(修士の仲間達を指さしながら)『あなたたちのやってることなんて、しょせん小さいのよね~』って、大きく出てりゃあいいんだよ!」(一同爆笑)

 

 …あわわわわ、もう絶句。なんてこと言うの、先生! これまでやってきたことを、根底から覆すなんて!!

 

いや、でも、確かに。本当におっしゃるとおりで、二の句が告げず。

 

「でもでも、先生、ゼミの先生には、いまのテーマを選んで正解だって言われたんですよぅ~~」

「まあ、色んな考え方があるからね。でもぼくは、一番やりたいことを、学部生のいま、やるべきだと思いますよ!」

 

ううううう、A先生、なんて恐ろしい人なの!

 

放心していたら、A先生に直接指導を受けている院生が、いてもたってもいられぬとばかりに一言。

「ほらね、これだから怖いのよA先生は! 私だって、「てきとーに学部卒業できればいいや~♪」と思ってたのに、A先生のせいで院にまで来ちゃったんだからー!」

 

すると、A先生を紹介してくれた院生も一言。

「いや、でもね、マチ子ちゃんなら絶対できると思うよ。先生のおっしゃる通り、やってみるべきだと思うよ!」

 

そうか、うん、そうだな。確かにそのとおりだ。

でも、コワいんだよね、正直。

 

だって、芸術学なんて、直接何かの資格とかお金とかに結びつくわけじゃない。ハタチやそこらなら、学芸員になるとか、教員になるとか、多少は具体的な夢を描けるかもしれない。

それでも、ここに集う私達は、知りたいことをもっと知りたくて、もっと掘り下げたくて、ただそれだけのためにやっている。私はまだアラフォーだけど、アラフィフの人、アラ還の人、もっと上の人もいる。

 

皆それぞれに仕事や家庭を持ちながら、寝る時間を削って、生活費を削って、身を削って。院の学費は高いから、最初から休学込みで、数年かける気でいる人も多い。そこまでして、どこに行くというのだろう。

先輩院生たちも、その問いを問いつづけながら、更なる高みを覗いている。みんな「修士を出ればもう満足」と言うけれど、先生は言う。

 

「いやいや、それで満足して終わりにしないで下さい。博士課程に進まなくてもいいけど、それ以外にも研究の道はある。少なくとも、学会には入ってくださいね。ぼくが話つけられるところだったら、いくらでも推薦状書くからね」

「色々な人生経験を積んできた皆さんの論文は、21、2歳の通学部の学生や、研究一筋で来た我々とは、やはりひと味もふた味も違うんですよ。そういう皆さんの研究成果が、もっと学会や世の中に周知されるべきなんです」

 

そう、院生たちも、みんなわかってる。「修士を出ればもう満足」なんて、本当はウソだって。

みんな、どこにでもいそうなおじちゃん、おばちゃんだよ。

でも、アツいよ。めっちゃイキイキしてるよ。

だから、簡単には諦められないんだよね。

 

もう、やりたいことを、やるしかないんだ。

だったら、外堀りを埋めてばかりいないで、本丸を攻めなくちゃ。どこに躊躇う理由がある?

 

これは何も、学問のことだけじゃなくて。

人生のあらゆる場面で。

 

仕事も学問も一から見直そうという矢先に、A先生の言葉は、あまりにタイムリーで、ずばり真実を言い当てていました。

そして、たまたま飲み会の機会があったこと、たまたまA先生と同席できたこと、そして、仲間がわざわざ私を紹介してくれたこと。

そのすべてを、無駄にしてはいけないなあと、いま、重く受けとめています。

 

本丸を、攻めろ。

 

おまけ:

通信制大学ライフについては、こちらをどうぞ。

machibamachiko.hatenablog.com

 

ブログを書くことは、教壇に立つことと似ている。

このブログを始めてから1年が過ぎ、これでちょうど50記事目になります。

1年でたかだか50記事、しかも、そのうちの約3分の1は過去の日記のコピペですから、この1年を振り返って総括できるようなことは何もありません。それでも、とりあえず一区切りつける意味で、今回は「ブログを書く」ということについて書いてみます。

 

紙の日記からWeb日記

14歳の頃からずっと、紙の日記を書き続けてきました。

就職してからWeb日記をつけ始め、サイトを転々としつつも30代はじめ頃まで10年近く書き続けました。

但し、これらはあくまでも紙の日記の延長線上にあるものでした。様々な葛藤を抱えていた20代の頃は、自分のドロドロとした感情を吐き出して整理する場として機能し、知人には決して知られないことを前提としていました。実際、この頃は今と比べたらネット利用者は少なく、SNSもなかったので、かなり個人的なことを書いても、身バレする危険性なんて殆ど考える必要もありませんでした。

30を過ぎると、仕事がかなり忙しかったせいもあり、次第に書かなくなっていきました。「自分は何者なのか、何をしたいのか」といったアイデンティティの問題で悩むことが減り、家族間の葛藤も問題ではなくなり、「吐き出す場」としてのWeb日記は必要なくなったのです。

 

何を書いたらいいのか、わからない

それでも、「何かを書いて、それを誰かに読んでもらいたい」という欲求は常にあり続けました。とにかく「書く」ことが好きなのです。

ところが、極めて私的な空間だったWeb日記の呼び名が「ブログ」に変わると、ビジネス目的の利用や、個人でもアフィリエイト収入などで利益を目指すものへと次第に変わっていきました。また、mixiTwitterの登場でネット利用者が爆発的に増え、ネット世界が現実の人間関係と容易につながり得るようになりました。

私はこの変化に追いつけず、ブログという「公的空間」に何を書いたらいいのかが、わからなくなっていきました。

2007年11月の紙の雑記帳に、このように書いてあります。

ネット上で日記を書きたい。でも、どこに、何を、どこまで書けばいいのかがわからず、どうしても踏み切れない。以前は堰を切ったように言葉が湧き出ていた気がするのに…。

書けないのは、良くも悪くも第三者の目を気にしているからだ。

以前は、読んでいる人のことを気にせずに書いていた。でも、いまは誰が読むのかを想定して慎重になっている。

何を、誰に、何のために、どう伝えたいのか。

それが整理できないから、マイぷれすmixiをどう使い分ければいいのかが定まらない。どの場で、どの範囲まで自分をさらけ出すか、ということは、自分という人間をどう表現・表明するかということだ。

その仕方によって読み手の反応や感想は様々で、それらの反応・感想を当然自分が負うことになる。それって難しいことだ。

うーん…。

 

妊娠~育休期には、家族や友人に告知して、妊娠・子育て日記ブログを書いていたこともありました。その日の献立や授乳記録、息子の写真といった、本当に当たり障りのない日常報告。日頃はなかなか会えない家族や友人たちに、近況を伝えるためです。

でもやはり、本当に書きたいのは、ただの近況報告レポートではありませんでした。まして、Facebookを利用するようになってからはそちらで近況報告できるので、ブログに書く必要性はなくなっていきました。

私がいちばん書きたいのは、「自分の考え」でした。頭のなかだけでこね繰り回した抽象論や、どこかで読んだだけの借り物の言葉ではなく、自分の体験、自分の五感を通して感じ、学び、身についた、血の通った思考の結果をアウトプットしたい。つまり、何よりも「自分語り」をしたかったのです。

 

「自分語り」にこだわる理由

「自分語り」にこだわるのは、なぜか。

 

ひとつには、「自分語り」の文学が好きだということがあります。

「自分語り」の文学といえば、まずは日記が挙げられますね。

たとえば、『アンネの日記』。ローティーンでありながら大変賢く瑞々しい感受性を持ち、絶望的な状況のなかでも努めて冷静さと希望を失おうとしないアンネの気丈さに、高校生だった私は衝撃を受けました。 

アンネの日記 (文春文庫)

アンネの日記 (文春文庫)

 

 

そして、高野悦子の『二十歳の原点』三部作。 

二十歳の原点 (新潮文庫)

二十歳の原点 (新潮文庫)

 

 

高野悦子全共闘時代の同志社大学の学生で、この日記は、彼女が3年生で自殺した後に、家族が発見し書籍化されたものです。有名ブロガーのちきりんさんが中学生の頃に読んで感動し、日記をつけるきっかけになった作品として知られていますが、私がこれを読んだのは、ちょうど自分が20歳のときでした。

ひきこもりになって下宿先の部屋でひとり悶々と日々を過ごしていた私には、自分と同じような恋やアイデンティティの問題で悩みながらも社会と果敢に向き合っている彼女は、眩しく映りました。それでも、こんなに眩しく輝いていた彼女がなぜ自殺してしまったのか、それに対し、ひきこもっている私に自殺願望が一切ないのは何故なのかといったことも考え込みました。

 

また、日記ではなく小説でも、ある人間、もしくはその家族をめぐる人生の物語が好きです。たとえば、北杜夫の『楡家の人びと』、水村美苗の『本格小説』、ナタリア・ギンズブルグの『マンゾーニ家の人々』など。

 

楡家の人びと 第1部 (新潮文庫 き 4-57)

楡家の人びと 第1部 (新潮文庫 き 4-57)

 

 

本格小説〈上〉 (新潮文庫)

本格小説〈上〉 (新潮文庫)

 

  

マンゾーニ家の人々

マンゾーニ家の人々

 

 

近年特にお気に入りなのは須賀敦子。小説ではなくエッセイ形式ですが、自分や友人たちの生き様をとても丁寧に回顧しています。 いまの私の「自分語り」は、無意識のうち彼女の影響を大きく受けています。

ミラノ霧の風景―須賀敦子コレクション (白水Uブックス―エッセイの小径)
 

 

ファンタジーやミステリーよりも、こうした「生身の人間の、ありのままの生き様」が描かれた作品に心を揺さぶられるのです。

更に、ここに挙げた作品に共通しているのは、個人の物語を通して、描かれた当時の社会や歴史があぶり出されていること。

極めて個人的なのに、そこには時代が大きく深く関わっている。大きな流れのなかで、個々の人間がいかに懸命に、あるいは適当に、あるいは無様に、あるいは果敢に生きているか。そうしたものがありありと描かれているドラマに、私は深く感銘を受けます。

 

そしてもうひとつ、私が「自分語り」にどうしてもこだわってしまうのは、自分自身の育った家庭環境がいささか複雑だったり、そのために(少なくとも主観的には)大きな挫折を経験してきたという成育歴のためです。

この気持ちをよく代弁してくれているのが、こちらのツイート。

 

そうなんですよ、まさしくコレなんです。ブログを書いている人の多くは、こうした動機が根底にあるのではないでしょうか。

ちなみに、私は自分が恵まれていないとか不幸などとは全く思っていません。むしろ、けっこう恵まれた部類でしょう。どん底から這い上がって、いまはとても幸せですから。

 

「『自分語り』はウンザリ、自分に酔うな」と思う方はもちろん多いと思います。「お前だけが不幸なわけじゃない」、それとは逆に、「リア充自慢するな」という反感を持つ方は多いでしょう。

確かに、そのような「ひとりよがり」な不幸or幸福自慢の自分語りなら、私がいまする必要はありません。20代の頃は葛藤の真っ最中で、それを丸ごと吐き出していました。先日ご紹介した恋愛に関する日記はまだしも、家族関係の葛藤についてはグロテスクなまでに自分の醜さも何もかもさらけ出していて、気が滅入った読者も多かっただろうと思います。

でも、あの頃に精一杯葛藤し考え抜いて、ひとつひとつの問題と向き合って自分のなかで消化してきたおかげで、いまの私は充足しています。ですから、いまの私にできるのは、自分がどうやって葛藤を克服してきたのかを書くことだと思っています。今年最初のエントリにも、以下のように書いています。

そのすべてが、「中途半端で無駄だった」わけなんて、絶対にない。私はいつも、その時々の学びや出会いを自分の血肉に換えてここまでやってきたと、いまは自信を持って言える。誰かと自分を比較するのではなく、自分自身に対して、「ひきこもりになった18才のあの頃から今日まで、よく頑張ってきたね」と言える。

だからこそ、私はこのブログを書こうと思ったのではなかったか。どうってことのない人生だけど、様々な失敗や挫折や苦しみ、ささやかな成功や喜びのなかで学んできたこと、考えてきたことが、もしかしたら、誰かの心に響いたり、役に立ったりすることもあるかもしれない、と思ったからこそ。

 

私自身が多くの「自分語り」から大切なことを吸収してきたように、こんどは自分の経験を通して、誰かにいくばくかの希望を与えられたら。そう祈りながら、このブログを書いています。そう、「生きる希望」について、語りたいのです。

 

そしてまた、ここ数年感じているのは、極めて個人的だと思っていた自分の成育歴が、いま振り返ってみると、実は時代と大きくリンクしていたということです。そうした自分と時代の関わりについても、今後少しずつ考察していきたいと思っています。

 

「身バレ」リスクをどう捉えるか

でも、「自分語り」って勇気がいりますよね。「身バレ」のリスクがあるからです。Web日記を書いていた十数年前とは違い、いまはネット利用者も増え、SNSが当たり前になり、身バレの可能性は格段に高い。そのために、「『自分語り』がしたい」という思いと、「身バレしたらどうしよう」という思いのはざまにあって、ここ数年ブログを書きあぐねていました。

 

実は、身バレしない範囲で自分の言いたいことを書くために、様々な方法を試していた時期もあったのです。

アメブロで、よくあるファッションの自撮り写真(もちろん顔は出していません)を載せた軽い感じのブログのなかで、自分の思いをポエム的に差し挟んでみたり。あるいは、別のブログで、歯に衣着せぬ辛口批評的なものを書いたり。

でも、どれもしっくり来ないし、大して読んでももらえなくて、いずれも半年ほどで閉じてしまったのです。それで結局、「身バレを恐れていては、自分の書きたいことは書けないし、伝えたいことを伝えられない」と思い知ったんですね。

 

そこで始めたのが、このブログでした。自分の経験や考えをぼかしたり、奇をてらったりすることなく、丁寧に、誠実に、素直に書こう。ただそれだけを念頭に置いて。

そうしたら、それまでとは比較にならないくらい、読んでもらえるブログに成長しました(あくまで個人比です)。もっとも、はてなブログで書いているのも大きな原因ではありますが。

昨年は更新頻度も極めて低かったにもかかわらず、100名近い読者登録があり、それ以外にもブックマークなどに入れて継続的に読んで下さっている方もいるようで、驚くと同時に大変ありがたく思っています。

 

もちろん、これだけ自分のことを率直に書いていますから、身バレする可能性は大いにあるわけです。知人が読めば、その多くは、すぐに私のことだとわかるでしょう。だからこそ、「丁寧に、誠実に」ということを、常に心がけています。

 

特に、このブログでは、自分の経験ばかりではなく、自分の考え方や立場を少なからず明確にしています。自分の意見をあえてぼかすとか、結論づけるまでには至らないから、考えがまとまらず曖昧なものは曖昧なままに書くというスタイルも、まったく悪いとは思いません。それはそれで、自分に正直なスタイルですよね。

但し、このあたりの個人的な方針は、わりとちきりんさんに近いのです。

自分の意見を持つ人にしか、自分の人生は選べません。決められない人は、自分の人生を生きられないんです。そしてもちろん、仕事上で価値が出せたりするはずもない。(中略)

「AともいえるがBともいえる」みたいな言い方をする人の多くは、自分の意見さえ持てないくせに、「ちょっと賢そうなことを言いたい」と思ってます。

でもね。「場合による」みたいな言い方の問題に気が付かず、悦に入ってそんなことばっかり言ってると、ほんとーに役立たない人になっちゃいますよ。(Chikirinの日記『2013-11-23 「AともいえるがBともいえる」とか言う人の役立たなさ』より)

ここまで言い切るのはなかなか挑発的ですし、私は人の仕事上の価値について云々する気はありませんが、「成熟した大人として、自分の立場をできるかぎり明確にすることは重要である」と思っています。

自分の立場を明確にするとは、自分で決断するということです。自分で決断するとは、自分の言葉や行動に責任を負うことです。特に、30を過ぎて仕事で責任ある立場を負ったときに、これはとても重要なことだと実感しました。もっともらしいことを言って何でも曖昧にしたり、他者(人・組織・社会・時代)に責任を押しつけていては、信頼は得られないし、成すべきことを遂行できない。

 

但し、自分の意見・立場を明言すると、それに反発したり「傷つけられた」と感じる人が必ず現れます。見知らぬ読者だけでなく、知人が私の文章を読んで「これは自分に対する個人的なあてつけだ」と感じる可能性だってあるわけです。

私自身も、人の文章を読んで自分が非難されているように感じてしまうことがあります。そんな時には一呼吸おいて、まずはこの教訓を思い浮かべるようにしています。

 

それでもなお、やはり「傷つけられた」と感じてしまうことがある。そういう経験は私もよくあります。ですから、このブログをたまたま読んだ知人が私に「傷つけられた」と感じ、私とは付き合えないと思われたり、周りの人間に「彼女はひどい人だから、もう付き合うのはやめましょう」と言いふらされて孤立する、などという可能性も、もちろんあるわけです。「私はひとつの見解を書いたまでで、あなたの人格を攻撃したり否定しているのではない。それでも気分を害してしまったのなら申し訳なかった」と謝罪したとしても、許してもらえないかもしれません。

 

そうなったらそうなったで、仕方ありません。相手が傷つけられたと思い込んでいるのに、それでもなお「仲良くしてネ☆」なんてことは言えません。「もう二度と会いたくない」と言われたら、そこで引き下がるしかない。その程度の覚悟はしたうえで、このブログを書いています。

 

ブログを書くことは、教壇に立つことと似ている

私が勝手に「心の師匠」と思い定めている内田樹氏は、「誰だって教師になれる」とあちこちで語り、書いています。『内田樹による内田樹』のなかで、その根拠をこのように説明しています。

これまでもさまざまな書物で何度も引用しましたが、教育についてかつて述べられた最も本質的な命題はジャック・ラカンの次の言葉だと思います。

 

「教えるというのは非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所に連れてこられると、すくなくとも見掛け上は、誰でも一応それなりの役割は果たせます。(……)無知ゆえに不適格である教授はいたためしがありません。人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っているのです。誰かが教える者としての立場に立つ限り、その人が役に立たないということは決してありません。」(ジャック・ラカン、「教える者への問い」『自我(下)』、小出浩之他訳、岩波書店、1998年、56頁)

(略)

 

「教卓のこちら側」にいる人間は、「教卓のこちら側にいる」という事実だけによって、すでに「教師」としての条件を満たしている。教師は別にとりわけ有用な、実利的な知識や情報や技能を持っており、それを生徒や弟子に伝えることができるから教師であるわけではありません。教師は「この人は私たちが何を学ぶべきかを知っている」と思っている人の前に立つ限り、すでに十分に教師として機能します。この人に就いて学ぶ人たちは、しばしば「彼が教えた以上のこと、彼が教えなかったこと」を彼から学ぶからです。

 

内田樹による内田樹

内田樹による内田樹

 

  

これを読んで、ブログを書くことは、私にとっては教壇に立つことに似ているのだと気づきました。

私には伝えたいことがある。だから、「教卓のこちら側」に立って語る。もしかしたら、誰も聞いてくれないかもしれない。石を投げられ、唾を吐きかけられるかもしれない。

それでも、私は伝えたいからここに立つ。そして、誰かに届くまで、語る、すなわち書く。それが、このブログでやっていることです。

 

そしてまた、書くことは「捨て去る」ことでもある、と最近感じるようになりました。

ひとたび書きたかったことを書き終えれば、そのことについては自分のなかで消化しきってしまい、もはや「どうでもいい」ことになってしまう。そんな感覚に陥ることがよくあります。

 

書いた人間はそれを捨て去るので、読み手は書き手に追いつかず、両者のあいだには常にずれが生じる。

書いたものは、いわば、排泄物。

でも、だからといって価値がないのではない。他者の排泄物を滋養にして、今度は読み手が書く。そのようにして、読むことと書くことは無限の連鎖に組み込まれ、「書くこと」の世界は成り立っている。

 

だから、読んだ者は書くべきだ、と思うのです。

いまの私は、(汚い表現で恐縮ですが)長年「あれが書きたい、これが書きたい」と溜め込んできた宿便を排泄しているようなもの。だから、いささか暑苦しい文章かと思います(^_^;)

とはいえ、私はどうしても、まず宿便を排出する必要があるのです。その先に進むために。

 

長年「書きたい」と思ってきたことを出しきったその先に、私にとってまた別の「書く」ことの意味が生まれてくるのでしょう。

もしかしたら、そこで満足して終わりにするかもしれません。でも今は、「書きたかったことを書く」ことの地平線のその先に、広大な「書く」ことの海が果てなく広がっているのではないかと、そんな気がしています。

 

 

おまけ:ペンネームとアイコンについて

昨年、はてなのあるブロガーさんとお会いしておしゃべりしたことがあるのですが、そのときに訊かれたのが、この2つについて。

 

ペンネームは、わが心の師匠・内田樹氏が多く著している『街場の現代思想』『街場のアメリカ論』などの「街場シリーズ」から「街場」をお借りし、下の名前は単なる語呂合わせで決めました。

ただ「街場」という語を借りただけでなく、内田師匠と同じように、街場の一市民として、地に足のついた、市井の感覚を軸足にして様々な物事について考えたいという気持ちを込めています。「街場のワーキングマザー日記」というブログタイトルも同様です。

ブログ開設前から、内田師匠の本と自分との関わりというのも書きたいテーマのひとつとして温めているのですが、私と同じように私淑している内田ファンは非常に多いと思われるため、なかなか勇気が出せずにいます…が、必ず書きます!

 

そして、このアイコン。ペンネームを印象づける効果を狙ったのですが、お会いしたブロガーさんにも「すっごくインパクトありますよ」と言われたので、「してやったり」という感じです。印章って、アイコンとして意外と見かけませんよね?

ちなみに、この印影は本物ですよ。つまり、印鑑をわざわざ作り、押印したものをスキャンしたのです。

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ウェブで印影を作ってもらえるサービスもあるし、技術のある方は自前で作れるかと思いますが、どうしても、平面的で「のっぺり」しちゃうんですよね。実際の印影の立体感や毛羽立ちみたいなものは再現しきれなくて、それがあるとないとではインパクトが違うので、シャレのつもりで作ってみたんです。「このペンネームで文章を書くぞ!」という気概も込めて。

もちろん、このアイコン制作のために押印して以来、いちども使ったことはありません…。

 

豊かな時代の黄昏時に、『33年後のなんとなく、クリスタル』を読む

田中康夫の『なんとなく、クリスタル』(以下、著者ご本人に従い「もとクリ」と略します)と『33年後のなんとなく、クリスタル』(同じく「いまクリ」)を読みました。色々と思うところがあったので、こちらで感想を書いてみます。

※ネタバレありです、ご注意を!

  

33年後のなんとなく、クリスタル

33年後のなんとなく、クリスタル

 

 

「もとクリ」のストーリー

まずは「もとクリ」を先に読んだのですが、それに対する読書メーターの感想はこちら。

 

33年後を読みたくて初読。いやあ、この「ある時代」の空気のまんま切り取り具合と批評性、お見事だなあ。めちゃ面白かった!1980年、団塊ジュニアの私は年長さんだった。中学生の頃はレノマやクレージュの財布や定期入れがどこにでも売っている定番だったので、「こういう時代の名残だったのか」と納得。人気モデルがアニオタを公言する2010年代とは隔世の感があるけれど、消費の積み重ねによって自己が規定され「なんとなく」日々が満ち足りてる感は今も同じ。

 

時は1980年6月。「もとクリ」の主人公は、都心の某オシャレ大学の1年生で、女性ファッション誌の人気モデルも務める由利。由利は、小田急線沿いの某大に通いスタジオミュージシャンとしても活躍する淳一と同棲(彼らはこれを「共棲」と呼ぶ)しつつ、互いに束縛されずに「なんとなく」浮気を楽しみ、「なんとなく」音楽を聴き、「なんとなく」消費をし、「なんとなく」生きている。そこにはなんの悩みもなく、「クリスタル」のような日々が続いているけれど、「あと10年たったら、私はどうなっているんだろう」という漠たる不安も抱えている。ストーリーとしては、まあ、それだけの話。

特徴的なのは、その頃に都心で流行していた洋服のブランド、音楽、お店などの固有名詞がこれでもかと詰め込まれ、それに対して作者が悉く注釈という名のツッコミを入れていること。ストーリー全体を俯瞰する作者の冷静な注釈が見事な当世批評になっていて、新装版で解説している高橋源一郎は、これらの注を「鋭くも強靭な批評の形をした(本文とは別の)小説」と評しています。

この作品を書いたとき、田中康夫氏は中央線の奥地の某国立大に通う現役学生でした。4年生で卒業直前に停学処分を受け、留年してヒマな日々を送っていたときに書いたそうです。3年後に書かれた著者ノートによると、「80年代の東京に生きる大学生を主人公にした小説を、無性に書いてみたくなった」というのが、その動機でした。

 

「いまクリ」のストーリー

そして、33年後。「いまクリ」の主人公は50代後半の「ヤスオ」と3つ年下の由利。なんと、ヤスオは33年前に由利が淳一と付き合う前の(正確には、交際期間が一部被っていた)「元彼」だったのです。

10歳年下の妻とプードルと共に暮らすヤスオは、ある日、由利の親友の江美子とバッタリ再会したことがきっかけとなり、かつての女友達が集う「女子会」に招かれます。都心のアッパーミドルのお嬢さんとして何不自由なく育った彼女たちは、相変わらずアッパーミドルの裕福な暮らしを営み、皇居を見下ろす高級マンションの最上階で、イタリア料理のケータリング(ドミノピザじゃありませんよ)を利用した優雅な昼食会を楽しみます。

大学卒業と同時にモデルをやめ、外資系化粧品会社に就職、独立した独身バリキャリの由利は、仕事のためにこの「女子会」には参加できなかったのですが、ヤスオはそれとは別に由利と2人だけで逢瀬を重ね、江美子とも2人だけで出かけます。相変わらず高級店でデートをし、ちょっぴり淫靡な空気も流れます。33年経っても懲りない面々です。

でも、「女子会」で主に話題になったのは、高齢化であったり、地方の衰退であったりといった社会問題でした。由利がヤスオを誘うのも、仕事で関わることを余儀なくされた子宮頸がん予防ワクチンの問題や、本業とは別に取り組もうとしているボランティア活動について相談するためです。

社会で発言を続け、阪神淡路大震災のボランティアや長野県知事まで務めたヤスオだけでなく、ここに集う元お嬢さんたちも、この33年間それぞれに子育てや仕事をかいくぐり、それぞれの問題意識と向き合いながら生きてきたし、これからも生きていくのです。

 

上流階級の風俗小説をどう読むか

「もとクリ」と「いまクリ」を合わせて読み終え、私は結構深く感銘を受けたのですが、こういうものを「くだらない」「下品」「昭和バブルなブランド至上主義」と一蹴する人も多いのだろうなあと感じました。

実際に、「いまクリ」の感想を読書メーターやアマゾンなどでざっと読んでみたところ、評価は二分しています。田中康夫と同世代~バブル世代あたりまでは高評価が多く、彼らの時代を全く知らない団塊ジュニアより下の世代や、同世代でも「もとクリ」に書かれているような豊かさを全く享受できなかった層は、低評価を下す傾向があるように見て取れます。

登場人物たちは厳密に言うとアッパーミドル(中上流)階級ですが、社会的地位が経済的豊かさや消費の旺盛さと結びついた80年代以後にあっては、彼らは間違いなく「消費社会における上流階級」でしょう。低評価の感想を読んで感じたのは、「上流階級の風俗小説をバイアスなしに読むのは難しいな」ということです。自分にはとても手が届かないような生活が事細かに描かれていると、どうしても羨望や嫉妬、その裏返しとしての怒りや侮蔑や“敢えて装おう”無関心といった感情が沸き起こり、それに直面せざるを得なくなるからです。そういう意味では、この作品はある種の「踏絵」となり得ますね。

もっとも、私自身も、ところどころで「あ~ハイハイ、幼稚園からセイクレッド・ハートな純粋培養お嬢さんでなきゃいけないわけね」とかツッコミながら読む箇所も多々あったので人のことは言えません。現在進行形の同時代を描いているので、自分と切り離して作品を読むことがなおさら困難なのですよね。

但し、そういった悪感情に身を任せてしまうと、こういう作品の本質的な部分を掴まえることは難しくなってしまいます。上流階級の消費生活や通俗性を丹念に描いているだけでダメ出ししてしまうのなら、プルーストの『失われた時を求めて』もフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』も谷崎の『細雪』も、すべて否定されてしまいますよね(どれも大好きです)。もしかしたら、これらの作品も発表当時は同じような批判に晒されたのかもしれませんが。(あ、そこの貴方、「田中康夫プルーストフィッツジェラルドと一緒にするな!」と怒らないで下さい。私は文学作品の優劣を云々できるほどの知識や見識は持ち合わせていませんので、「なんか似てるよね?」と思ったただけです)

もちろん、この作品自体の質を低いと判断する方もいると思いますし、それはそれで私とは意見が違うというだけのことなのですが、それ以前に、「もとクリ」と「いまクリ」双方にしつこく出てくる固有名詞やある種の階級意識に振り回されて、作品を「読む」ことができなかった人も結構いそうだな、という気がします。  

 

「もとクリ」と「いまクリ」は“いま”、“セットで” 読むべし

同時代の風俗小説をバイアスなしに読むことの難しさを語ったばかりですが、それでもなお、「もとクリ」と「いまクリ」は、いま、セットで読むことを是非お薦めします。

「もとクリ」を書いた当時の康夫青年は、まさか33年後にその続きを書くとは想像していなかったのではないでしょうか? この作品で作家デビューし一躍「時の人」になるとは露ほども思わず、内定企業に入社したくらいですから。

それでも、33年経ってこの作品を書いて下さったことに、感謝したい思いです。「もとクリ」と「いまクリ」がセットになることで33年の空白が埋まり、時間的にも内容的にも、ぐっと奥行きと広がりが増したからです。

 

2作品によって点と点が結び合わさることで、時の経過と登場人物たちの成長が描き出されました。ある意味では、教養小説として読むこともできるかと思います。また別途このテーマについては書こうと思っているのですが、個人的に、日記文学教養小説が大好きなんです。

教養小説(きょうようしょうせつ)とは、主人公が様々な体験を通して内面的に成長していく過程を描く小説のこと。ドイツ語のBildungsroman(ビルドゥングスロマーン)の訳語で、自己形成小説とも訳される。(教養小説 - Wikipediaより) 

「いま」を「なんとなく」生きていた由利たちが成長し、「過去」や「未来」を見据えられるようになっている。そして、人ひとりの力の小ささを痛感しながらも、それまでの時代や個人の軌跡に支えられて、まだまだ先の長い「これから」の生き方を、それぞれが真摯に模索している。

そうかと言って、別に修行僧のようにストイックに生きているわけではありません。相も変わらず食事を、ワインを、ファッションを、ときめきを謳歌しながら生きている。「年を取るのも悪くないな」「年を重ねるのが楽しみだな」と背中を押してもらっている気分です。

そしてまた、「いまクリ」では、阪神淡路や東日本大震災を経験して大きな時代の曲がり角にを迎えている「いま」現在、個人がどのように社会的・個人的課題と向き合っていけばいいのかという重い問いに、ヤスオや由利たちを通して軽やかに答えてくれているように思います。そのポイントは、「出来る時に出来る事を出来る人が出来る場で出来る限り」というヤスオの言葉にあり。人生の折り返し地点を迎えて「さて、どうしようかな」と模索中の私にとっても、ヤスオや由利の「これから」を見据える姿勢が励みになりました。

 

「豊かな時代」の「たそかれ時」に佇んで

「いまクリ」で一番好きなのが、ラストシーンです。

ヤスオは行きつけの美容院でカットやカラー、ヘッドスパを受けています。店員や隣席の客との会話を挟みながら、ヤスオは「記憶の円盤」を回して様々なことを思い起こします。

その間に、少しずつ日が暮れてゆきます。「たそかれ時(黄昏時)」です。それは、ヤスオや由利が迎えつつある人生の「たそかれ時」でもあり、彼らとそれ以後の世代が生まれながらに享受してきた豊かな時代の「たそかれ時」でもあります。

「豊かな時代」というのはこの作品に書かれている言葉ではありません(「豊かな世代」という言葉は出てきます)。私がここで言う「豊かな時代」とは、一般大衆が物質的豊かさを浴びるように享受し、物質的豊かさによって文化の豊穣も(味わおうと思えば)味わえた時代、というほどの意味です。

彼らのようなアラ還~アラフィフ世代は、このような「豊かな時代」をもっとも謳歌したことでしょう。団塊ジュニアの私は、多少はそのおこぼれに預かることができたし、その時代を何となく理解することはできます。

「バブル時代に文化の豊穣なんてあったものか、あったのは金だけだ」と言う人も多いかと思いますが、私はそうは思いません。それは主に、夫の影響によるものなのですが。

 

アラフィフの夫は城南育ちで、高校は小田急線沿いのおぼっちゃま学校、大学は三田の文学部でガールフレンドには事欠かなかったという、バブル時代を思い切り享受した一人です。大学卒業後は商社マンとして世界中を飛び回ったり欧州に数年赴任し、国内外で美味しいものを食べ歩き、美しいものを見て歩きました。このあたりは、ちょっとヤスオに似ています。

「もとクリ」のある登場人物が語っているように、スパゲティを食べるときにスプーンを使うのは現地ではみっともないということを初めて教わったのは、夫でした。この他にも、フォークの背にペタペタとごはんを乗っけて食べるのも向こうの人には奇異に映るからフォークの腹に乗せろとか、国内ならいいけれど、パリのグランメゾンで皿に残ったスープをパンで拭うのはNGだといった様々な豆知識も教わったし、ヤスオのように、フレンチやイタリアンの調理法や食材の知識も豊富です。

 

こういうことって、「どうでもいい」と言えば、「どうでもいい」のです。付き合い始めた頃は、面倒くさいなと思ったりしたこともありました。

でも、「文化」ってこうした「どうでもいい」慣習や知識の集積で成り立っているのですよね。抽象的な小難しい概念ではなくて。

 

物質的な豊かさを存分に、過剰なほどに享受した彼らの一部は、こうした膨大な「どうでもいい」ことのなかから自分なりのフィルターで良質なものを選り分けて、自分の財産として残し、そうして残った文化の多くを、壮年期を迎えた彼らが後続世代に残してくれて現在がある。そういう意味で、80年代は今の20代、30代にとっても過去ではない。溢れる物のなかから自分にあったものを選りすぐる術みたいなものは、彼らの世代から引き継がれていると思います。

でも、物質的な意味での「豊かな時代」は、いま確かに終わりつつある。人口が減り経済規模が縮小していくのは明らかで、私たちは別の豊かさを模索している。

そうした時代の「たそかれ時」に、ヤスオや由利は静かに、でもけっこう熱く向き合っています。

 

このシーンを読んでいて、私はルキノ・ヴィスコンティの『山猫』という映画の最後のシーンを思い浮かべました。

 

山猫 Blu-ray

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自らも公爵家の出であるヴィスコンティが撮った、イタリア貴族の没落を描く壮大な物語。その最後のシーン(だったと思います、たぶん)では、バート・ランカスター演じる老公爵が教会前の広場でひとり佇み、頭を垂れて鐘の音を聴いています。その鐘の音は、ひとつの時代の終わりを告げるレクイエムのように響きます。ヤスオにもこのレクイエムが聞こえているのではないかと、私は錯覚しそうになりました。

 

でも、ヤスオは由利のこんな言葉を思い出します。

「黄昏時って案外、好きよ。だって、夕焼けの名残りの赤みって、どことなく夜明けの感じと似ているでしょ。たまたま西の空に拡がるから、もの哀しく感じちゃうけど、時間も方角も判らないまま、ずうっと目隠しされていたのをパッと外されたら、わぁっ、東の空が明るくなってきたと思うかも知れないでしょ」

 

 「た(誰)そかれ(彼)時」は、日の出前の「か(彼)はたれ(誰)時」によく似ている。これから先の「かわたれ時」を見据えて、由利は言います。

 

「『微力だけど無力じゃない』って言葉を信じたいの」

 

私もその言葉を信じたい。きっと誰もが、そう信じたいと願っていることでしょう。

 

 ご参考:

プルーストを読む―『失われた時を求めて』の世界 (集英社新書)

プルーストを読む―『失われた時を求めて』の世界 (集英社新書)

 

 ↑これからプルーストを読みたい方は、まずはこちらの入門書から。

失われた時を求めて〈1 第1篇〉スワン家のほうへ (ちくま文庫)

失われた時を求めて〈1 第1篇〉スワン家のほうへ (ちくま文庫)

 

 

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

  

細雪 (上) (新潮文庫)

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細雪[東宝DVD名作セレクション]

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↑この映画、おすすめです。とにかく美しい!

 

別れの季節

春3月。昨日の昼休み、いつもの百貨店のいつもの化粧品カウンターに、いつもの基礎化粧品を買うために行きました。

 

ここには長く通っているものの、2、3ヶ月に一度、最低限必要なものを買いに来るだけなので、担当してくれる美容部員は決まっていないし、お気に入りの人がいるわけでもありません。

昨日対応してくれたのも初めての方でした。見たことがないので、多分よそのお店から移ってきたのでしょう。買いたいものを伝え、ママ同士のおしゃべりをしながら肌チェックと化粧直しをしてもらって会計を待つ間、横からすっと、Iさんが顔を出しました。

Iさんは、私が唯一名前と顔を覚えている店員さん。10年近く前にこのブランドを使い始めた頃、私はここから数百メートル離れた別の百貨店のカウンターに通っていたのですが、数年前にその百貨店が閉鎖すると同時にIさんはいまのお店に異動になり、私も職場が近かったので、こちらに通うようになりました。

 

「こんにちは」と互いに挨拶し、「Iさんも随分長くこちらのお店にお勤めですよね」と言おうとしたら、彼女が口火を切りました。

「街場さん、実は私、今月末で退職するんです」

「えー、そうなんですか!」

予想外の言葉に驚きの反応を示したあと、自分がそれ以上に予想外の寂しさを感じていることに、また驚きました。

 

ほとんど赤の他人でしかない彼女との別れをこんなにも寂しく感じるなんて、年のせいかもしれません。こういう微かな別れへの寂しさは、年々増している気がします。

子供を産んでからは特に、このように袖振り合っただけの知り合いの大切さというものをひしひしと感じるようになりました。大学時代にひとりぼっちを経験した私は、自分には親友と呼べる人がいるのかなどと他者との親交の深さにこだわっていた時期もあり、それは多くの人が若い頃に苛まれる悩みでもあるでしょう。他者との深い結びつきの経験が人格形成や精神の安定をもたらすのは言うまでもないことですが、このように名前も知らない顔見知りの存在というのも、実は私たちの日常性を大きく支えているように思います。

 

以下の記事にも、既に同じようなことを書かれています。

xkxaxkx.hatenablog.com

 

 

私もこれと同じような経験をしたことがあります。

夫とは、同棲していた7年ほど前から毎朝一緒に通勤していましたが、最寄駅に行く道すがら、晴れた日に必ず見かけるおばあさんがいました。腰がくの字に曲がり、少なくとも80は超えていると思しき彼女は、いつも自宅前の石段に腰かけて、道行く人を眺めるでもなく、ただじっと佇んでいました。

何年か経ったあるとき、彼女が晴れていても現れないことに気づきました。「入院したかな、それとも亡くなったかな?」と夫と気にかけていましたが、その後も姿を見かけることはありませんでした。だからどうということもないけれど、それは確かに微かな喪失であり、日常に針で開けたほどの小さな穴が開きました。もっとも、その穴はすぐに埋まる程度のものでしたが。

 

いまは息子がまったく人見知りなく明るい子なので、近所の商店街の誰にでも自分から笑顔を振りまいて知り合いになります。魚屋、豆腐屋、蕎麦屋、床屋、美容院、鍼灸院。以前は素通りしていたお店も、いまではすっかり顔見知りです。

 

ちょっといいことがあって軽い足取りで歩いていた朝、呉服屋のおじいさんは「いつも笑顔でいいですね」と声をかけてくれました。

明るい色のワンピースを着て息子と出掛けた休みの日には、床屋のおじさんに「今日はまた素敵だねえ」とお褒めの言葉を頂きました。

魚屋のおねえさんは、息子の気まぐれで通園コースを変えただけでも、「昨日は具合でも悪かったの? 大丈夫?」と心配してくれます。

なかには名前を伺った方もいるけれど、大方は顔だけしかわかりません。それでも、ここを通ればこの人が、あの店に行けばあの人がいるというだけで、私の生活の豊かさは少しずつ保たれている。

 

美容部員のIさんも、まさしくそんな人のひとりでした。

行く度に彼女と話すわけではないので、Iさんの人となりなど知る由もありません。それでも、そこに行けばいつも必ず彼女がいて、カウンターのどこかで営業スマイルを見せている。

2年ほど前に転職し、この百貨店は以前より通いづらくなったので、本当は家からもっと近いお店に替えてもいいのです。それでも何となくここに通い続けているのは、Iさんという見知った人がいるという、ただそれだけの理由のような気がします。

もし、ひとりで街中を歩いているときに直下型地震でも起きて、Iさんや呉服屋のおじいさんに偶然出会えたとしたら、私はきっと救われたような気持ちになることでしょう。モノクロの画面でそこだけ色が差したように目に映り、この人が生きていてよかった、と心から思うことでしょう。

親交の深さなんてあまり意味はない。ただ、その人がそこにいる。あの人があそこにいる。それだけで、感謝するには十分です。

 

カウンターで会計が済んだあと。Iさんと、「これからも、どうぞお元気でお過ごしください」「街場さんこそ、どうぞお元気でお過ごしください。いままでありがとうございました」と互いに礼を言い合って去りました。それは通り一遍の別れの挨拶であり、ごく常識的な大人のマナーに従ったまでだけれど、礼節というのは、こういう時のためにあるのでしょう。

3月は、深い悲しみを伴う大きな別れだけでなく、こんな無数の小さな別れで成り立っているものです。

 

おまけ:

卒業の季節ということで、こちらもどうぞ。

machibamachiko.hatenablog.com